『凪のあすから』19話に学ぶカッティング・ノウハウ

アニメをつくる上で、演出をする上で、
構図をどうするかという問題と同じくらいに大切、
いやそれ以上に大切で大変かもしれないのが
カッティングをどうするか(カットをどう繋げていくか)、という問題である。


例えば、ダイアローグ(会話)のときに
いつ話し手にカメラを向けるか
いつ聞き手にカメラを向けるか
いつ両者を映すか、といった具合に、である。

押井守 「何かのためにする」カット割りっていうのはね、やっぱり演出的にはロクなもんじゃないんだよね。いい事はひとつもない。ダイアロークの場面だって、発言者が変わるたびにカットを切り返す必要がどこにあるんだ、ってさ。一方の発言者だけ映していればいいじゃないか、話している相手の声なんて脇から聞こえてくればいいんだ。


【引用元】
押井守,『スカイクロラ絵コンテ』,アニメスタイル編集部,2008年,396頁


そうは言っても、
一般的なアニメでは、やはりどこかでカットを切るのが普通だ。
固定カメラで「マーガリン危機一髪」のようにまわし続けるのも楽しいが、
カットを切ることでアニメ制作の作業工程は格段にスマートになると思うし、
カットを切ることによる映像的快感というのもたしかにあると思うのだ。


個人的にはその「カットを割るノウハウ」というのを
汲み取ってみたいというところもあって、
今この記事を書いている。


そこで『凪のあすから』なのだが、
『凪あす』19話では、さまざまなシチュエーションの会話シーンが登場する。


脚本:吉野弘幸
絵コンテ:安藤真裕 演出:菅沼芙実彦
作画監督:川面恒介、大東百合恵


ノローグ、2人、3人、4人と人数の違うダイアローグ。
お見舞いや食事、何気ない場面での会話も含め、色々な会話シーンが出てくる。
それらのシーンからいくつか抜粋し、
そのカッティングを見てみるというのも面白いのではないかと思った。


かなり趣味的で冗長的な記事になるが、
その中から少しでも意味のある情報を引き出せればと思う。


ということで、
カッティング例をいくつか挙げていく。

カッティング例その1

Aパート。
ひかりのモノローグのシーンを抜粋。
まなか(昏睡状態)に向けて話しているので正確にはモノローグではないのかな?
いずれにせよ尺にして一分間、ひかり一人で話し続ける。
これはアニメにしてはなかなか長尺ではないだろうか。
もちろん、これを1カットでやるのは無謀。ちゃんと割っていく。

ひかり まなか、早く目覚ませよな。
まなかとひかり、二人を映す。
まず、二人がいることを視聴者に知らせるための状況説明の1カット。



ひかり おふねひき、親父にもうろこ様に無駄って言われて、でも俺
次。フルショットからひかり(話し手)のアップショットに寄る。
まず話し手に寄る。
ここでは、1カットの台詞が少し長いので、
読点ごとに、「目をつむったり」、「俯いたり」等の小さな仕草を入れていく。
こういった仕草一つひとつが台詞に説得力を与えているように思う。



ひかり 本当はずっと期待してた。きっと何か起こる。起きてくれってさ。
次。室内を撮っていたカメラを
室外にいる、襖の隙間から状況を覗き見する美海(聞き手)に移す。
(普通だったら、ここではまなかへカメラが向きそうなところをそうしない。)
外部へ逃がせる存在がいることは演出的に(脚本的にも?)大切そう。
ノローグでは特にこういった存在(人物でもモノでも背景でも)が必要かも。
この場合は、第3者の視点・反応を映すことで読解に客観性・深みが生まれている。


それと「横顔」。
横顔は向いた先の相手に対する強い感情を示す。正面顔よりも。



ひかり そしたらあんなことになっちまって。
次。美海のアップショットからひかり&まなかのツーショット。
台詞が希望的なものから後悔に変わるのに合わせてカット割り。
ひかりとまなかのイマジナリーラインを越えていく。
座敷の内外をカメラが移動したり、
カメラを引いたり寄せたり、絵的な変化も常に狙っている印象。



まなかへ目を向けるひかり。
構図的にも、まなかへ目を向けやすいようにアングルが調整されているように感じる。



ひかり おまえがあかりを助けてくれたのか。
そしてまなかのアップショット。ようやく。
ここはひかりの主観ショットでもある。
主観ショットの前には「(ツーショットで)相手に目を向ける仕草」を入れるとカットが繋がる。
ひかりが言う「おまえ」の方にカメラをしっかりと向ける。
台詞とマッチした絵を挿入する。ここはわかりやすい。



ひかり あのとき何があったんだよ。
おまえ、おふねひきが終わったら、俺に何か言うことあるっていってたよな。
ひかりへ切り返し。アップショットが続く。
ここは1カットに対して台詞が長いので、
3回ほど所作を入れて、台詞に説得力を持たせる。



ひかり あのとき、
回想を挟んで、まなかのアップ。
ひかりの手の動きが全てを物語る。
この所作のやりきれなさが、続く台詞をこの時点で連想させ、次カットへ。



ひかり どんだけ伸ばしても、全然おまえに届かなかった。でももう二度と、
アップからツーショットへ。
寄って離れて。離れて寄って。この辺りは規則的に思える。
台詞がちょっと長いので手をにぎにぎする。
このように手を出していると、芝居的には使い勝手が良い。



ひかり おまえがやだって言っても、絶対離さないから。
ひかり・まなか間を切り返して切り返して
最後に美海(聞き手)のアップへとカメラを逃がす。
「絶対離さないから」と、ひかりがまなかに一番伝えたい台詞のところで
美海を映すというこのイヤらしさ。
ひかりのアップでも、まなかのアップでもない。美海のアップ。
けど、それが「聞き手」の役割。
どう反応するかを見せるのが「聞き手」の役割。
ただ単にそこへカメラを逃がしているわけではない。



ひかりのモノローグ終わり。
ここで(実はずっと美海を見ていた)ちさきを映す。
そうすることで話をここからグイッとちさき視点に持っていく。
ここを例えば、美海のカットで終わらせてしまうと、
美海視点を引きずってしまうように思われる。
こういった点は演出ではなく、物語構成のノウハウ。

カッティング例その2

Aパート。ちさき、要、紡による鼎談シーンから一部抜粋。
鼎談(ダイアローグ)では、モノローグ以上に、
人物の位置関係をどうセッティングするか、
誰を画面に映すか(誰を画面からはじくか)
といった点が重要になるように思う。



 論文が評価されなきゃ助成金が下りない。この異常気象と海村の関係を立証し、地上の危機を回避しようと
3人全員を映して人物配置の提示。
このカット、台詞は長めだが、先ほどとは違い、
アップショットではないため、芝居は特にうたない。
というより、ここは構図で持たせている印象。
和室のローアングルが決まっている。


今回演出の菅沼芙実彦さんは『有頂天家族』の4話、空飛ぶ奥座敷の回や
『凪あす』14話、木原家の座敷が複数出てくる回を担当された方。
レイアウト能力を問われる座敷(室内)描写をしっかりと作りこまれるところから、
演出、作画能力ともに大変に優れた方であると推測する。



 している教授の研究もストップする。
台詞の最後で要(聞き手)のアップショット。
台詞の最後でカットを切りかえるというのがポイントだろうか。
分からずやの要を紡が理詰めで説得させようとする場面。
聞き手である要の表情・反応をアップで映す。効果的な演出だ。



 それにきっと興味本位のマスコミが群がって

 美海が大変な目に遭う。
相手に目を向けてから

(沈黙。にらみ合う要と紡)
次のカットで見合うようにする。
先ほどもあったが、こうすることでスムーズにカットが繋がる。
ちさきは画面に入れない。ここでは余計だから。
無音の間でワンテンポおいて、

ちさき もう、いつも言葉が足りないのよね。紡は。
続くカットでちさきがフレーム内に入り、話し始める。
要と紡の二人をなだめようとするちさきだが、
位置的には二人の間に入るようにも見えて面白い。
間に入って、喧嘩を止めようとしているように見える。
人物配置は変えずに、アングルをその場面に沿って調整させていく。



ちさき ねえ要。分かってあげてくれないかな。
要(聞き手)のアップショット。
聞き手の反応を見せるべきときは、カメラをそちらに向ける。
眉をひそめ、怪訝そうな顔をする要。
ここでカットを割るから、この顔が撮れる。
この顔を映すことで、ちさきの優しげな言葉が一転して残酷なものへと変貌する。



ちさき なんか、あるのよね。いろいろ。
そして、ちさきのアップ。
ちさきが紡を慮っているという表情をアップショットでしっかりと映す。
それを見せつけられる要がいたたまれない。
台詞が倒置になっているのもここでは良くて、
「なんか/いろいろあるのよね」ではなく
「なんか/あるのよね/いろいろ」と区切る箇所を増やせたり、
動詞ではなく「いろいろ…」で終わらせることで、言葉を濁せたり。
ちさきが言葉を選びながら、相手を思いやる様子が表れている。

カッティング例その3

最後にちょっとだけ。
Bパート、ひかりとちさきの海村での会話シーン。
話し手と聞き手、二人を同時に映すシーン。

ひかり 人の話を聞いてるようで実は聞いてないのもまんまだし。
ちさき そんなことないわよ。
ひかり あとちょっとからかうと

ひかり ムキになるところも。
ちさき (そっぽをむく)
やや長めのカット。
二人を映しつつ、それぞれの反応・芝居をしっかりとフレームにおさめる。
エスト〜フルショットから


ちさき じゃあひかりの方は?こんな朝早くから何でこっちに来てるの?
ひかり ああ、俺はなんつうか
ロングショットへ。カメラの寄り引き。
ちさきが話し始めるので、そっぽを向いた状態から顔が見えるアングルへ。
ここまでは何気ない会話。
何気ない会話にはカメラはどちらにも寄らない。中立。



ひかり じっとしていられなくてさ。
そしてアップ。
何気ない会話から核心に迫るところで手のアップを入れる。
橋に手をかけたり、腰をかけたり。
橋はポージングの際にいろいろと使えそう。

終わりに

唐突だが、先月『ビフォア・ミッドナイト』という映画を見た。
内容は置いておくとして、
近年まれに見る会話劇映画だった。
ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、ひたすらまくし立てる。
何より凄いのがその間、カットをなかなか割ろうとしないことである。
ずーーっと割らない。
夫婦役のイーサン・ホークジュリー・デルピーが延々と痴話喧嘩をする。
それを何分間にもわたって1カットで垂れ流す。
これは実写であるからこそ出来るワザだ。


アニメではカットを丁寧に割る。
率直に話し手にカメラを向けてみたり、
聞き手を映して客観性を演出したり、
とりとめのない話をしているときは引いて見せたり、
ここぞというところではやっぱりアップにしたり。


カッティングを理詰めで語るのは難しい。
どれが正解でどれが不正解などというのはない。
が、映像の映し方ひとつで、
カットの積み重ね方ひとつで受け手の印象はまるで変わる。
それもまた事実である。
そこを少しでも把握することができれば
それはアニメを楽しむ手段の一つ、ということになるのではなかろうか。