『四月は君の嘘』5話の演出を語る

5話は「顔をちゃんと映さないカット」が多かった。

こんなふうに、目から上を切ったり、目元をアップで映したり…。なぜそうするのか。ただ撮り損ねただけ?もちろん、そんなわけではない。それは、「味がある」からやっているのだ。


脚本:吉岡たかを
絵コンテ・演出:石浜真史
演出・作画監督・原画:小島崇史



石浜真史氏は以前からそういった「顔をちゃん映さない」撮り方をよくされる。むろん、こういうのは「味がある」わけである。「格好良い」わけである。


では、なぜ味があるのか。格好良いのか。


ひとつは「映さない箇所をわざとつくることで、想像が膨らむから」というのがあると思う。たとえば目元を映さなければ、どんな目をしているか想像する余地が生まれるだろう。エヴァ4話でミサトさんの顔を黒く塗りつぶしたら、視聴者にミサトさんの表情を想像させる余地が生まれたby庵野秀明、みたいな話である*1


一方で、「映っている部分が強調される」といった見方もあると思う。口元を映して発言するシーンでは、そのセリフが誇張されて映る。強調するべき箇所を適切な絵でちゃんと拾う。いらない部分は切るという発想。「見えている事しか見ている人には伝わらない」by幾原邦彦、みたいな話だ*2


これらは場合によりけりというか、つまり、どちらも正しくて、「顔をちゃんと映さない」ことで「想像」させたり、「強調」したりできる。いずれにせよ、そういった要因が結果として「良い絵」をつくっているのだと思う。


で、ここからが本題。上のような前提を踏まえた上で、もう少し踏み込んで『君嘘』5話を見てみたいと思う。すると、そこには二つの二項対立を見出すことができる。つまり、

・「目元を映す/目元を映さない(口元や背中を映す)」
・「顔をちゃんと映す/ちゃんと映さない(目元アップ、口元アップなど)」

といった二項対立だ。これらを上手く行き来することで、5話は登場人物らの「嘘」と「本心」を描き分けていたように思う。


たとえば「目元」と「口元」では、それらが与える印象というのは異なる。「目は口ほどに物を言う」ではないが、口で何を言おうと、目は嘘をつかない。そんな印象があったりするわけだ。

たとえば、最初の病室シーン。ここでの宮園かをりは目元をちゃんと見せない。それは彼女が嘘をついているからだ。友人たちに心配をかけないように、「気絶したのは初めて」で「ちょっとしか無理をしていない」と嘘をついている。ここでは、目を映さないフレーミングが嘘の可能性を含意し、口元のアップが嘘のセリフを強調する。



そして、ギャグが入って一転し、宮園の顔を「ちゃんと映す」。すると、彼女の「本心」からは遠ざかる(カメラが遠ざかるのに同期して)。「ちゃんと映す」ことで、彼女の本心に切り込めなくなる。それに対して、有馬公生の険しい目元は彼の「本心」を描写するかのようだ。



ここでは目を映さないカットが続くが、突如として挿入される宮園の目元アップがその雰囲気を一転させる。宮園は有馬をちゃんと見ているのだ。「目元を映す/映さない」という区別はここで効いてくる。目元を映さないカットが続くからこそ、目元を映したカットに価値が出てくる。


そして、続く「それではいけない?」というセリフを口元アップで力強く(強調して)描く。ここでの口元アップは嘘じゃない。それは宮園が有馬にしっかりと目を向けているからだ。目元アップを挟んでからの口元アップであり、最初の嘘をつくシーンとはカット構成が違うのである。



目元アップは本心を映す。有馬に目をむける澤部椿は本心に従順だ。続く椿の顔アップも本心に沿ったセリフ。顔がちゃんと映るから、動きも生き生きしている。そこにはアニメーションのエロスがある。


対して、「顔をちゃんと映さないカット」はきわめて静的。「静止の美」が強調される。しかし、ゆえに口の動きや目の動きがつぶさに描写されることがある(静的だが、静的じゃない、みたいな?)。そこには作画レベルで描かれ方に違いがある。



ここは、有馬の本心と目元アップのフレーミングが同調する。わかりやすいシーン。



回想シーン。宮園の目はなるべく映さない。それは彼女の目に価値を持たせるためだ。宮園の目元アップは、有馬の目元アップに呼応して映される。ここでの主体は有馬だから、「有馬が目を向けてから、宮園の目元が映る」というPOVの手続きをちゃんと踏む。


加えて、ここではアップのカットでセリフがのらない。セリフがのるのは、二人の背面ショットの箇所、つまり観客に向いているカットである。それは、宮園が有馬に対して語りつつも、感謝の気持ちは観客の側にも向いているからだろう。



しかし、そういったルールはここでひっくり返る。つまり、ここからの宮園のセリフは二人のアップショットにのせられる。なぜなら、ここでは宮園は有馬に対して感謝の意を述べるからだ。観客を排した二人だけの世界。そこにおいて、背面ショットにセリフがのることはない。


そして、「ありがとう、有馬公生君」と言う宮園のカットは「顔をちゃんと映したカット」であり、アニメーションのエロスに満ちている。「顔をちゃんと映さない静的なカット」を続けたことで、ここでの一瞬が最上のエロスを放つ*3


このように、このシーンでは最初に述べた二つの二項対立「目元・顔をちゃんと映す/映さない」を使って、ある種のギャップを描いている*4


ここからBパート。

有馬と宮園の関係に立ち入れない椿。「じわTB」や「ショットサイズ」、「フレーミング」、「視線の交差/非交差」、「明暗」などで徹底的に、ホントもう徹底的に椿の孤立を描く。ちなみにこの「孤立」が本筋になるのが6話だが、6話ではレイアウトレベルで椿と有馬を引き離す演出が見られた。



「目が曇っているなら、その目元を映せばいいじゃん!」……とはならないのである。ここでは椿の目を映さない。それは椿が自分の目が曇っていることを認めようとしないからだ。それは自分に対して嘘をついてるわけだが、そうすることでしか彼女は平静を保つことができないのだ。


その流れから先輩の告白へと続くわけである。そこに目元のアップが挟まることはない。二人の関係は、ゆえにどこか歪なものとして映る。


Bパートラスト。

目元は本心を映す。しかし、ここでは有馬のモノローグ、つまり本心が口元アップにかかる。宮園に伝えたいけど、伝えられない想い。心の目をつぶってしまうけれど、実際にはつぶらないし、そもそも目元を映さない。そういった矛盾、口から出かかっている本心。口元のアップはそのような葛藤を捉えていく。続くカットでは目を映し、彼は自身の罪を懺悔する。これもまた紛れもない彼の本心だ。



しかし、それに対して宮園は口元のアップで返す。嘘をついているわけではない。彼女にとって、そのような葛藤は些細なことなのだ。大したことないのだと言っている。この口元アップはいわば「前座」だ。本当に伝えたい言葉は逆接(「それでも」)の後にやってくる(現代文の授業で習ったアレである)。そのセリフを「顔をちゃんと映したカット」でしっかりと捉える。このようにして、二項対立によるギャップをしっかりと仕込んでいく。


そして、二人の視線がきれいに交わる(ハレーションで目がキラッと光るシーン)。ここまでずっとトリッキーなことをしてきたが、ここは「きれい」な視線の交差だ*5。有馬はここにおいて、宮園に救済される。彼はきっともう大丈夫だ。



そして、とどめの連続目元アップ。ここにおいて、テンションは最高潮に高まる。有馬は自身の本心と向き合い、立ち向かう力を得る。その前進を目元のアップがストレートに捉える。



そして最後は満面の笑顔を「ちゃんと映す」。彼らのエロスをしっかりとフレームにおさめる。


目元や口元のアップといった「ちゃんと映さないカット」はある意味では息苦しくもある。それは被写体の心情に迫るからだ。きわめて叙情的である一方で、静的で、局所的で、時間圧縮的で、そこにはストレスがある。


しかし、「ちゃんと映すカット」は、被写体を内的世界から外の世界へと連れ出す。静止的な時間から、実時間へと引き戻してくれる。そこにストレスはない。含意もない。想像させる余地もない。あるのはストレートなエロスだ。脊髄反射的な感情表現であり、無垢な童心だ(アバンのような)*6


『君嘘』5話は「顔をちゃんと映さないカット」が多かったが、しかし、本質はそこにはない。本当に見てほしいのは、こういった「顔をちゃんと映したカット」の方だろう。5話の構成を大雑把に言えば、「顔をちゃんと映さない」→「顔をちゃんと映す」となる。ラストに最大の価値を持ってくるために、ギャップをつくるために、感情の解放を描くために、「ちゃんと映す/映さない」という二項対立があったように思うのである。

演出の着眼点
・「目元アップ」…本心/「口元アップ」…嘘っぽい
・「顔をちゃんと映さない」…叙情的、静的/「顔をちゃんと映す」…実時間的、動的(エロス)
・「映す/映さない」でギャップをつくる


≪参考にしたサイト≫
『四月は君の嘘』感想まとめ - Togetter
四月は君の嘘 5話「どんてんもよう」 感想(2014秋アニメ) : GOMISTATION★
アニメ様の「タイトル未定」[小黒祐一郎]049 3本の1人原画

*1:小黒祐一郎編(2011)『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』講談社

*2:付録「ウテナ白書」,『アニメージュ』1997年6月号,徳間書店

*3:しかも「じわTU」である。徹底している。

*4:ここでの背面ショットを繰り返し映すような演出はアニメ的な見せ方だと思う。一方で、コマの流れを大事にする漫画では、こういった反復は描かれにくい表現のように感じる(やるにはそれなりのギミックやルールの提示が必要そう)。この回はアニメに限らず、原作でも「顔をちゃんと映さない」コマが多く見られたが、その配置の仕方には微妙な違いがある。

*5:椿とは対照的。

*6:こういった「静/動」の描き分けは、アニメーションの得意分野であり、醍醐味だ。