『四月は君の嘘』16話の演出を語る

脚本:吉岡たかを
絵コンテ・演出:黒木美幸
作画監督:ヤマダシンヤ、野々下いおり、小泉初栄、三木俊明、浅賀和行、高野綾(総)


16話。入院中の宮園かをりは一日だけ外出する許可をもらい、通学路で会った有馬公生とともに散策に出かける。病状を悟られまいとして明るく振る舞おうとする宮園かをりと、そんな彼女の様子をうかがう素振りを見せる有馬公生。対照的な二者を演出的にも区別して描く。


たとえば、アップショットにおいて、有馬公生は目を映すけれど、宮園かをりは目を映さないようにして描かれる。

有馬公生はアップになるとき、必ずといっていいほど目が映される。彼の心情は掴みやすい。それはモノローグとともに、彼の目がちゃんと映し出されるからだろう。



対する宮園かをりはアップの際に目が映らない。背中を映したり、目より下を映したりする。そうして彼女はその顔を、その本心を隠したがる。それは周囲に心配をかけたくないからかもしれない。彼女の心境は複雑に渦巻き、その台詞は含意的。だから目を映さない。


しかし、そんな彼女にも目をアップで見せる瞬間がある。それはアバンとラストだ。

ここでは彼女は本心を隠しきれなくなる。冷静でいられなくなる。気を張っていたのが緩んでしまったのか。あるいは、本心を隠す気が失せてしまったのか。


いずれにせよ、1話の中で目を映したり映さなかったりと、大きく揺れる彼女の描写はきわめて情緒不安定なものとして映るだろう。


以上の宮園かをりの描写についてまとめると、「最初目が映って、中盤目が映らなくなって、終盤また目が映った」というようになる。そこから彼女の感情の大まかな流れを読むことができる。以下では、そんな上記「Avant-1」〜「B-3」のカット・シーンについて個別に見ていく。その中で、「目を映す/映さない」の違いや、「目を映さない」ことで得られるニュアンスについて考えていく。

Avant-1 目を映す

アバン最初のシーン。宮園かをりが自宅で転倒する。

画面がピンぼけしたり、画面動したりしながら、彼女の目がアップで映され(3)、主観ショット風のカット構成となる。宮園は不意の転倒に激しく動揺する。そこにおいて本心を隠したり、取り繕ったりする余裕はない(そもそも他に誰もいないのだから取り繕う必要もないが)。そこで見えるのは、ありのままの反応、動揺。それらを正確に拾うために、ここでは大きく目を映す。

Avant-2 目を映さない

続くシーン。入院する宮園かをりの姿をバックショットで撮る。

表情が見えず、一見するとさも冷静であるかのように映る。鼻歌を奏でながら、平常であるかのように装う。しかし、その表情はもしかしたら苦痛で歪んでいるかもしれない。絶望に打ちひしがれているかもしれない。そんな感情を押し殺すかのような様子を、顔を映さないバックショットが的確に捉えていく。

A-1 目を映さない

病院から外出した宮園かをりは有馬公生と遭遇する。

彼女は渡亮太に会いたいと有馬に言うが、果たしてそれは本心なのかどうか。カット2やカット4のバックショットは、彼女の言動が本心とはあべこべであることを示しているかのようにも見える。目を映さないことでセリフに何かしらの「含み」を加える。本当に会いたいのは誰なのか。



カット4では有馬が画面を横切る一方、宮園はずっと静止している。すると、画面の主導権がその場で静止し続ける宮園に渡る。カメラは彼女を捉え、彼女の本心に少しだけ接近する。「渡ではなく、本当は有馬に会いにきた」という本心に。続くシーンで「君でいいや」という台詞へとスムーズにつながるのは、ここでいったん照準を宮園に合わせたことが大きいように思う。

A-2 目を映さない

宮園と有馬がショッピングに行き、迷子の子どもを保護者に送り届けた後のシーン。

1〜3で目を見せない。特に3の「お母さんやお父さんを泣かせちゃダメだよ」というセリフは迷子の子どもに対しての言葉のようでいて、もしかしたら宮園かをり自身に向けた言葉なのかもしれない(自分の病状が父や母を悲しませているのではないか)。そういった含意のニュアンスをバックショットがすくいとる。


続く4、5はこちらを向いてのセリフ。純粋に子どもへの愛情が感じられる。ちなみにここは原作だと、依然として目を映さないまま。すると、たとえば「一人取り残されそうで怖かったんだね」といったセリフにも、彼女の複雑な感情が被さってくる(宮園自身が一人取り残されるのではないか、という不安)。アニメだとそこまで深刻には見せず、すぐに明るいモードに切り替えている。見せ方の違いでセリフの解釈も変わってくる。


続くシーン。有馬が宮園にジュースを渡す一連。

ジュースを落とした直後のカット9、10で宮園の顔をちゃんと映していないところに注目したい。



カット9。有馬が動いているカットだが、宮園を静止させることで、画面の主役が宮園であることを明示する。先ほどの例と同様。つまり、このカットの意図は「ジュースを拾う有馬」ではなく、「ジュースを落として動揺とする宮園」へ向く。しかし、カメラが下へ下がることで彼女の表情は巧妙に隠される。「深刻な表情は見せない」という志向が徹底している。有馬も有馬で彼女の異変にまったく気付けないというある種の鈍感さが強調されて映る(気付きたくないというのも勿論あるだろうけれど)。

A-3 目を映さない

夜の学校を訪れた有馬と宮園のワンシーン。

カット3で目を映さない。「学校を探検した女の子」「一緒に迷子を助けた女の子」「病院を抜け出して待っていた女の子」のうち、最後のセリフだけカットを分けて、目を映さない特殊なアップショットに被せる。彼女は果たして誰を「待っていた」のか。そういった含意的なニュアンスが「目を映さないショット」によって醸し出される。ちなみに、原作では3つまとめてロングショット1コマにまとめている。そのため3つのセリフがアニメとは違って対等なものとして映る。アニメではカットを割ることで、セリフの意図をアップデートさせている。


話が脱線するが、このシーンは芝居やSEにちょっとした拘りを感じた。

それは上のような宮園が机や窓ガラスを手でなぞる芝居だ。もう学校に来られないかもしれない彼女だからこそ、手で触って一つひとつを確認したいのだろう。その思いがひしひしと伝わってくる。あわせて接触音がちゃんと聞こえるのも良い。こういった何気ない日常の仕草にともなう「接触音」は被写体の実在感を増す。被写体にたしかな質量を感じさせる。質量があるから音が鳴るわけだ。こういった些細な「音」の作り込みは映像のリアリティを一段上へと押し上げる。宮園かをりはこの瞬間、少しだけリアルさが増す。

A-4 目を映さない

学校からの帰り道に、自転車を二人乗りする有馬と宮園。

カット2で目を映していない(対するカット3は目を映す。対照的)。涙を流すのを見られたくないという宮園の心情を表現したカットであるように感じる。加えて、カット2から3にかけてのマッチカットの流れに注目すると、有馬はまるで流れ星を見て、宮園が涙を流したことを認識したかのように受け取れてしまう。もちろん、現実には宮園の泣き声がきっかけとなるわけだが、ここでもうひとつ、演出的な創意がある。

つまり、このシーンでは、宮園の泣き声はいっさい流れないのである。音響はBGMと有馬のモノローグだけで、そこに宮園の泣き声が被さることはない。わざと泣き声をカットしている。きっと宮園は泣き声を有馬に聞いてほしくなかったのだろう。だから泣き声を消去した。彼女はそこまでして隠し通したいのである。目を見せなければ、泣き声も聞かせない。それが彼女の美意識なのだ。そのようにして美しくありたいのだ。有馬は宮園の泣き声をきっと聞いていない。流れ星を見て察したのだと、カット割り的にそう解釈させる。映像だからこそなせる、美しい嘘のやりとりだ。


先ほどの接触音はちゃんと乗せるのに、ここで宮園の泣き声は乗せなかったりと、聞こえる音をすべて乗せているわけではないのである。そこには音響面の創意工夫がある。接触音」は宮園が望むから聞こえる。「泣き声」は宮園が望まないから聞こえない。16話の演出が彼女の心情に迫ったものであることは音響まわりを聞いてみても、感じ取ることができるだろう。

B-1 目を映さない

ここからBパート。有馬が相座凪に宮園のことを話すシーン。そこに病状が悪化した宮園の絵をかぶせる。有馬の認識(願望込み)と実際の宮園が乖離していることを描いてみせる。

ここでの宮園はすべてのカットでその表情が映されない。妙に冷静で(1、2)、感極まっても泣き顔を見せようとしない(6)。現状に対し、まるでじっと耐えているかのようにも見える。爆発寸前、そのような印象も見て取れる。

B-2 目を映す

宮園の病室に皆でお見舞いに来たシーン。そこで口論になる有馬と宮園。ここでついに目のアップが映され、宮園かをりのフェーズが切り替わる。

5で目のアップが映される。不意に感極まって出てしまった涙。抑えきれない感情・本心を目のアップが捉える。先ほどのように泣き声が消されることもない。皆の前で泣いてしまった。誤魔化しきれない。続くカット6で初めての「有馬主体」のダッチアングル。ここでようやく宮園の嘘偽りのない、ありのままの姿と対面した有馬は大きく動揺する。その様子、不吉さをダッチアングルで表現する。


これまで宮園は本心を見せないように、有馬に心配をかけさせないようにと明るく振る舞ってきた。それが彼女の精神をギリギリのところで踏み留めていた。皆の前で泣く(目をアップで映す、本心をさらす)というのは、宮園からすれば絶対にしてはならないことだった。

16話ではギャグパートが多数挿入されるが、そのどれもが宮園をきっかけに始まっていた。有馬からギャグを仕掛けることはなかった。宮園はそうして普段通りであるように繕っていた。そうまでして彼女は本来の自分というのを皆に見てほしくなかった。

B-3 目を映す

ラスト、宮園の病室に再びやってきた有馬。

これまでとは打って変わって、宮園の目のアップが連続的に挿入される。もはや本心を隠す気がなくなった。取り繕わなくなった。あるいは自棄的になったか。カット進行も変則的で、二人のツーショットが途中に入ることはない。ワンショットの応酬。ロングに引くことがない。宮園と有馬の感情が激しく交差しあう。圧迫感あるカッティング。宮園は目のアップを通して、本心に近い言葉を投げかけてくる。これまでとは明らかに違う。その様子に対応しきれない有馬。彼は正面ショットで宮園と向き合うことができない。



たとえばこのようにして、向き合うことができない(上は夜の学校のシーン)。それは宮園がかつての有馬の母と姿が被るからだ。


そしてラストカット。

ここまで続いたアップショットの応酬から、急にスッと引いてロングのツーショットとなる。ワンショットでは掴めなかった二人の距離感がツーショトになることで急に明示される。宮園は有馬の目と鼻の先にいた。圧倒的な近さ。それが恐怖に変わる。母と似た人物がそばにいるという恐怖。そして「私と心中しない」という宮園のセリフが空間に響く。ワンショット―ツーショットのギャップが場の緊張感を極限まで高める。有馬はそこで動揺してしまう。彼は「宮園の目」に応えることができなかった。


◇◇◇◇


目を映さないのは、宮園かをりがそうしたくないから。
泣き声を聞かせないのは、宮園かをりがそうしたくないから。


それは有馬に心配をかけたくないというのもあるだろうし、彼女なりに見栄を張っているのだとも捉えることができると思う。いずれにせよ、16話のアングルや音響には、宮園かをりの欲望が大きく絡む。そういった欲望が消失し、自分を装えなく(装わなく)なったとき、目は映り、泣き声が聞こえるようになる。演出的な歪みが解消される。ありのままの姿がありのままに映される。「偽」から「真」へ。その段取り・設計に演出の妙が感じられた回だった。