『たまこラブストーリー』の美意識 山田尚子監督の美意識

ちょっと遅れたけれど、ようやっと見れた『たまこラブストーリー』。
率直な感想。面白かった。非常に面白かった。
当分、青春映画は見なくていいと思えるくらい面白かったです。


美しい、けれど切なくて胸が詰まる青春の一ページ。
ノスタルジックにキラキラと輝く日常風景。


そう。この映画には「美意識」があった。
作り手たちの「美意識」。京都アニメーションの「美意識」。
もっと言ってしまえば、山田尚子監督の「美意識」でこの映画は出来ていた。

風景画を見てですね、この風景って、その画家がスケッチした部分と同じだから、そこの写真を見たほうがよっぽど良いじゃないか、って人がいますかね?いないでしょ。
そこを写した写真よりも、ある画家がですね、美意識のもとに描かれた風景画のほうが良いに決まってるんだもん。それと同じことなんです、アニメーションって。


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山田尚子監督の美意識は明確だった。
青春のイメージ=望遠レンズ+画面ブレ+トイフォトっぽい色味
みたいな感じに。わかりやすい。明確。
けどそう。美意識はもやっとしたものじゃない。
こんなふうに「演出」という形に変換できる。この辺りは理詰めの作業。
形になってはじめて伝わる。
私たち観客は映像を見て
「ああ、青春ってなんか望遠レンズだよね」
と納得し、共感する。
正しい、計算された美意識は共感を生む。

よく周囲の人から感覚で作業しているといわれるのですが、自分ではどちらかというと逆のような気がしています。 結構がんばって端々まで計算してるんですよ。数学とか苦手なのでつらいですけど。人の無意識はずっと意識して演出しています。


山田尚子監督インタビュー|Special | 『たまこラブストーリー』公式サイト


たまこラブストーリー』は計算された映画、計算された美意識の集積である
演出が台詞、心境と噛み合い、無意識下に語りかける。
映像的快感が最大限に発揮されることを狙ってつくっている。


その快感をひも解くことはこの映画をより深く味わうことに繋がる。
ということで、ここではそんな数々の演出の中から、いくつかをピックアップして見てみたいと思う。

心情の機微をすくう「横顔のアップ」と「瞳孔揺れ」


手前にいる「相手」を強く意識するとき、
意識が「相手」の方に吸い寄せられたとき、
カメラアングルは被写体を横から捉える。
横顔の方が「見つめている」感が出るからである。
キャラクターの「見ている」をしっかりと画面におさめる。
計算された演出。
それが心情の機微を表現することになる。説明台詞はそこには不要である。


視線の向きを強く打ち出していく演出。その見せ方の徹底。


横から撮るばかりではない。
正面から撮ることだってある。
正面から撮るときは、誰かを見ている「自分」の方にフォーカスがあたる。


「相手」に意識を向けることが多いながらも、たまに「自分」自身に戻ってくる。
その往来。心情と連動していくモンタージュ。絵に魂が宿っていく。


そして瞳孔の震え。
瞳孔の震えは心の震え。落ち着かない様子を表現する。
この映画が基本的に落ち着かないのは、瞳がたびたび震えるから。

青春ラブストーリーはトイフォトっぽい


画面ブレ、ガウスぼかし、ピン送り、緑色の背景(教室、中庭など)。
つい見入ってしまう。映像に酔う感覚。
青春は望遠レンズである。
いろんなところがぼやけていて、トイフォトっぽい。
理屈とかではなく、これがたぶん、ノスタルジックな絵。ラブストーリーな絵。
雰囲気の作り込み。そこにあるのは明確な美意識。


ぼやけているけれど、
見せるべきところにはちゃんとフォーカスがあっている。
誰を見せるか、どこを見せるか。
フォーカスされた箇所が画面から浮き出る。
そういう美意識。



瞳を見せたいから、その周辺をぼかすとか。
山田尚子作品は基本的に目力が強い。そうなるように見せ方を工夫している。


ちなみにこういったぼかす系の処理といえば
境界の彼方』の5話(絵コンテ・演出:山田尚子)。
『たまこラ』演出の原型はこの5話にあるような気がしていたりもする。

誰を映し、誰を映さないか

複数で会話するシーンでは、誰を映して、誰を映さないかという問題がある。
ロングで和気あいあいとした会話風景を見せたかと思うと、
ぐっとカメラをたまこに寄せてみたり。みどりに向けてみたり。
心情の機微をナメやアップでしっかりと拾っていく。


カメラをよせることで、被写体を感情レベルで孤立させる。
「皆で楽しそうに喋っている中で、私は一人、思い悩んでいるのよ」そんな絵をつくる。


体育館入口でのバトン部の会話シーンとか、
トイレの前でのもち蔵、みどり、たまこのやりとりとか。
病院でのたまこともち蔵二人きりのシーンもトリッキーで印象に残る。

向き合わない二者の配置


視線の向きは観客の無意識下に強い影響を与える。
だから、あまりに向き合いすぎるのは不自然だったりする。
時には向かい合わない人物配置をとることも大切。



向き合う絵というのは勝負どころに取っておくべき。
たとえばもち蔵がたまこに告白するシーンとか、最後のシーンとかに
「誰かを見る」という行為がこの映画ではかなり繊細に扱われる。
使いどころを厳選している。
何気ない会話シーンではむしろちゃんと向き合っていないことの方が多い。
無闇に誰かを見つめることを意図的に避けている。

「音」の連鎖が紡ぐカッティングのリズム


体育館シューズが床にすれる音、バトンの回転音、落下音、チラシを広げる音、喧騒などの様々な環境音、部屋でベッドが軋む音。
映画館だからこそ映える細やかな音の数々。


被写体から発せられる音は絵と合わせて用いられることで、そこに確かな存在感を生む。
そして周囲の環境音は臨場感を演出する。


体育館シューズの音が鳴るシーンでは、足元にカメラが向く。
そして、次のカットではその音が遠ざかっている。カメラが別の場所にいくからだ。


音はそれぞれが孤立するのではなく、連なることで、時間的な流れをつくっていく。


劇的で豊かな音の連鎖。
シーンの切り替わりでチラシを広げる音を入れてみたり。
商店街のシーンで、環境音が変化していく様子を楽しんでみたり。
音を急に差し込むことで、絵がつられて変わっていくかのような。
急なカット割り、場面転換にも対処する。
その急さ、速さが心地良いテンポをつくっている。
音の連なりが音楽となって、映画のリズムを刻んでいく。


リズムといえば、
他所で言及されていた「ジャンプカット」の演出の数々。
これらも心地良いリズムをつくりだしていた。
フルショットで長々とした芝居は「たまこ」にはきっと合わない。
切るところはバサバサと切っていく。
音を使って、ダイナミックにカットを繋いでいく。
それが「たまこ」流。

「動かさない」という芝居

芝居は抑え気味だったと思う。
これまでの京アニ作品を思い返すと、抑え気味につくっていたと思う。
少なくとも平沢唯的な過剰さはなかったし、
アニメチックな動きはコメディシーンのみに限られていた。


芝居の傾向は基本的には「じわじわ」と「止め」の二種類に分けられそう。



例えば、手や足の動きはじわじわ系。
じわじわと枚数を使って動かして、生っぽさや心情の機微を表現していく。
瞳がメインウェポンだとすれば、手足はサブウェポン。



そして止め系。
これが多かったように思うし、インパクトも大きかった。
キャラの心情に迫るシーンでは、ポージング、シルエットで勝負していた。
「横顔」の描写もそのひとつ。
動かない絵。瞬間、時間が止まってしまったような感覚に陥り、息も詰まる。
さっと挟まれるポートレートに、映画であることを忘れる。


動く絵と動かない絵の緩急。
たまこが自室にいるシーン。
フルショットで部屋の中をとぼとぼと移動して、しゃがみ込む。
そしてアップで「動かない絵」が入る。この緩急が「たまこラ」のリズム。

演出あそびが入り込む余地

ひたすらにキャラクターの心情に沿った演出だったように思う。
そこに無意味な「演出あそび」が入り込む余地はほとんどない。


それこそ冒頭のシーンくらいのものである。
トリッキーなカメラワークなどで、演出的に遊んでいたのは。
導入は劇的に。
物語的に起伏の少ない導入であるからこそ、せめて演出は劇的に。


長回しもあまり見られなかったと思う。
合わないのだ。おそらく。「たまこラ」には合わない。
「たまこラ」は動的なカットの連なりで出来ていたように思う。
激しく揺れる心情に合わせるかのように動的。
だからこそ、見ているこちらまで落ち着かなくなってくる。


視線が宿った扇情的なアップショットと時おり挟まれる静的なポートレート
息が詰まりそうな窮屈さと青春的な美しさ。
その間を埋める何気ないフルショットの日常風景が時おり窮屈さを和らげる。



たまこが夜空を仰ぐ商店街のシーン。
基本的にはアイレベルで撮ってきた。
だから、空を仰ぐシーンには意味がある。
心が解き放たれる。感情が飛躍する。
演出的に遊ぶことの大切さがここにある。



「感情が画面に乗る」ことがある。
感情が乗ると、映画は途端に面白くなる。見入ってしまう。
それはアニメ、実写に関わらず。


実写であれば、それは役者のコンディションによって大きく左右される。
最近なら『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか『ダラス・バイヤーズクラブ』とか。
役者が感情を制御して演じ切っていた。感情が映画に宿っていたと思う。


アニメはどうだろうか。
アニメは絵だ。すべてをゼロからこしらえなくてはならない。
声優の演技がいかに良くても絵がダメ、音がダメでは感情は乗らない。
けれど、作り手の美意識が明確であれば、
美意識は映像に憑依し、アニメの表現は研ぎ澄まされる。感情が乗る。
実写以上のリアルっぽさが表現され、実写以上の感動を与えたりする。


山田尚子監督は本作を「実写を意識」してつくったとのことだが、
実際にできた映画は実写的な部分を備えながらも、やはりアニメだった。
当然である。実写をつくりたいわけではない。
実写を意識した「アニメ」をつくっているのだから。

高畑さんの作品ってよく、「これって実写でやっても良いんじゃないですか?」ってことが言わることが多いんですよ。
それは、はっきり言って間違いなんですよ。絶対アニメーションで作って、高畑さんの演出によって作ったほうが良いんだもん


監督インタビュー|Special | 『たまこラブストーリー』公式サイト


感情が乗ったアニメ映画に出会えて良かった。
山田尚子監督の美意識というのに触れることができて良かった。
この体験はきっと忘れないだろう。
けいおん!!』のときもそうだったけれど、
この体験は良い意味でこれから末永く引きずっていくタイプの体験だ。


当分は『たまこラブストーリー』のような映画を追い求めながら、
アニメ、映画を見ていくことになりそうである。