アニメOP演出試論 ―映像が刻むビート― 前編

アニメOPでは、演出が楽曲に対していかに上手く音ハメできるかという点がひとつの要になってくると思う。たとえば「リズムに合わせてカットを割れているか否か」でOPのテンポ感も変わってくるだろう。となると、問題は「どう上手く割るか」という点だ。

たとえば、上のような割り方が真っ先に思い浮かぶだろう。わかりやすく1拍目で割る。見た感じ、テンポ良くリズムを刻めそうではないか。

しかし、事はそう単純ではない。実際には上のように4拍目で割ることもある。一見すると、中途半端な割り方だ。「何のために?」と思われるかもしれない。しかし、この割り方にはちゃんとした意味がある。音楽に通じていれば、この時点で察しがついた方もいらっしゃるだろう。


上記二つのカット割りは本エントリの核となる。これらが一体どういったふうに違うのか。それぞれどういったリズムを刻み、どういったリズムを刻めないのか。それらを押さえていきながら、OP映像が刻む「リズム」や「アクセント」、「切断(seamy)/接続(seamless)」といったポイントに迫るのが本エントリの狙いである。

本エントリで取り上げるOP・ED
・『甘城ブリリアントパーク』OP(絵コンテ・演出:武本康弘
・『デンキ街の本屋さん』OP(絵コンテ・演出:佐藤まさふみ)
・『selector spread WIXOSS』OP(コンテ・演出:橘秀樹
・『ヤマノススメ セカンドシーズン』OP(コンテ・演出・原画:石浜真史
・『棺姫のチャイカ AVENGING BATTLE』OP(絵コンテ・演出:池添隆博
・『七つの大罪』OP(絵コンテ・演出:岡村天斎
・『まじっく快斗1412』OP(絵コンテ・演出:木村延景)
・『天体のメソッド』ED(絵コンテ・演出・作画監督・原画:江畑諒真


脚注で取り上げるOP
・『四月は君の嘘』OP(絵コンテ・演出:中村亮介)
・『PSYCHO-PASS 2』OP(絵コンテ・演出・作画監督石浜真史

各編のキーワード
前編…カッティング、切断/接続、オンビート/オフビート
中編…演出的アクセント、オフビート
後編…動線、速度、逆張り、傾斜

1拍目で割る=わかりやすい

まず1拍目のカット割りについて考える。1拍目で割る方法というのは、何よりも「わかりやすさ」が強調される。他の拍で中途半端に割るよりも、断然綺麗な印象を与える。

たとえば『甘城ブリリアントパーク』OPのAメロはこのように1拍目でカットを割る。非常に綺麗な割り方であり、画面の情報が整理されて伝わってくる感がある。「わかりやすい」というのは、そこでの情報がしっかりと伝わるということだ。仮に1拍目以外の箇所で変則的に割られたら、虚をつかれて混乱を生むかもしれない。そういった意味で、1拍目での規則的なカット割り*1は極めてわかりやすいのである。そのようにしてパークの日常風景をわかりやすく切り取り、提示していく。


この「わかりやすさ」というのは重要だ。というのも、アニメOPというのは決してわかりやすい割り方ばかりで割られないものだからだ。


これ以降、わかりにくいカット割りのオンパレードとなるが、そのような中で不意に差し込まれる「わかりやすいカット割り」はわかりやすいがゆえに目立つのである。「わかりやすい/わかりにくい」という双方を併用する中で、それらの相対的な差というのは浮き彫りになっていく。

4拍目で割る=カット間を繋ぐ

1拍目がわかりやすければ、4拍目はわかりにくい。たとえば『デンキ街の本屋さん』OPには、『甘ブリ』とは対照的に、4拍目でカットを割るシーンがある。

このように1拍目ではなく、前のめりに4拍目という中途半端な場所でカットされる。しかもモチーフごとやフレーズごとといった規則性がない。つまり、このカット割りには『甘ブリ』OPのAメロのようなわかりやすさはないわけだ。


が、その代わりに何があるかというと、「繋ぐ」のである。そこに1拍目との違いがある。たとえば、このシーンでは先生*2の一連の動作はきわめてシームレスに紡がれる。つまり、「カップ麺のふたを開けたら、リンゴが入っていて、驚いて笑った」という一連である。その描写に対して、『甘ブリ』のような完ぺきに整理されたわかりやすさは必ずしもマッチしないだろう。


4拍目のカット割りにはシームレスにカット間を繋ぐ力がある。その理由のひとつは、カットが小節をまたぐためである*3。それに対して、1拍目のカット割りはわかりやすいがゆえに、ある種の「断絶」をつくることにもなる。

たとえば、ここでは1拍目と4拍目のカット割りを使い分けているが、それぞれ「断絶(=切断)」と「繋ぐ(=接続)」に対応する。つまり、1拍目のカット割りは、直前のカメ子のシーンと「断絶」させるためであり、対する4拍目のカット割りは腐ガール*4がソムリエ*5おでん缶を渡す動作を「繋ぐ」ためと、このように峻別して見ることができるのである*6


ここまでを整理しよう。

要点
・1拍目のカット割り…わかりやすい。「切断(seamy)」の効果がある。
・4拍目のカット割り…わかりにくい。「接続(seamless)の効果がある。

つまり、それぞれに利点がある。ゆえに場合によって使い分けられることになる。これら上記を踏まえた上で、以降肝心の「リズム」や「アクセント」の話へと移っていくが、言うまでもなく、これらこそが「OPのノリ」を大きく決定づけるものである。

カット割りが刻むオンビート/オフビート

リズムには表と裏がある。つまりオンビート(1、3拍目を強調するビート)とオフビート(2、4拍目を強調するビート)のことだ。最近のポピュラー音楽はその大半がオフビートだと思う。今回取り上げるOPもすべてオフビートだ。しかし、その楽曲がどうであろうが、カット割りにはオンとオフ、そのどちらも有り得るわけである*7


前段の1拍目と4拍目を峻別する話はここに繋がってくる。オンビートは日本人なら馴染みの深い、「わかりやすい」リズムだ。対するオフビートは感覚的にやや馴染みにくいが、楽曲のビートと同調し「繋げる(リズムを断絶しない)」力がある。「1拍目/4拍目」の「わかりやすい/にくい」、「切断/接続」という感覚は、「オン/オフビート」がもつ性質と符合する。

たとえば、『デンキ街』OPのサビ前では、このようにカット割りがオンビートを刻む*8。この「1・3・1・3」というリズムは非常にわかりやすいもので、状況がよく伝わる。ここでの状況とはつまり、ひおたんとカントクが見つめ合うという状況のことだ。むろん、楽曲本来のオフビートからはズレており、切断的な印象もあるわけだが、しかし、切断的であるからこそ、1カット1カットがしっかりと強調されるとも言えるのである。


これがオフビートのカット割りになると、すべてがひっくり返る。

『甘ブリ』OPのイントロではカット割りがオフビートを刻む。このシーンを初めて見たときに「矢継ぎ早にカット割りしていく」ような印象を持たれなかっただろうか。だとしたら、その要因はオフビートでカットしたことにある。オフビート下では、「わかりやすさ」よりも「繋がる」感じが前面に出る。一つひとつのカットが強調されることなく、カットごとが連結し、流れるように前へ進んでいくような印象がある。


たとえば、「千斗の入浴シーン」→「ラティファの起床シーン」というように綺麗に分かれて認識されず、「千斗の入浴シーンキター!」と狂喜する暇もなく即座に「ラティファの起床シーン」に切り替わってしまうような感覚がある、と言えば伝わるだろうか。つまりそこには断絶面がない。ある意味でそれはわかりにくさの要因になるわけだが、一方でそのわかりにくさは楽曲のビートと同調して、映像にスピード感をもたらす*9

要点
カット割りが刻むリズムには以下の二つがある。
・オンビート…「切断」的にリズムを刻む。状況がわかりやすく伝わる。
・オフビート…楽曲に合わせて「接続」的にリズムを刻む。映像が楽曲の流れに乗る。*10


オンビートが表舞台に立つ役者であれば、オフビートは舞台裏の黒子のようなものだ。それらはリズム隊のごとく、普段はあまり表だって目立つことはないだろう。しかし、楽曲のリズムは常にオフビートが司っている。それもまた揺るぎない事実である。ゆえに、映像にノれるか否かのカギもまた、オフビートこそが握っているのだと言える。


何が言いたいのかというと、リズムを主張したい箇所があるのなら、オフビートを目立たせてやればいいということだ。問題はその方法になるわけだが、そこで登場するのが「演出的アクセント」である。普段は目立たないオフビートのアクセントは「演出的アクセント」を合わせることで、たちまち立役者へと変貌する。これこそが音ハメの真髄である。


≪中編につづく≫

*1:しかもモチーフ(2小節)ごとのカット割りである。実に規則的だ。

*2:デンキ街の本屋さん』の登場人物。漫画家志望のため、「先生」というあだ名で呼ばれている。実際に先生なわけではない。

*3:これに関しては、シンコペーションの手法をカット割りに導入したものと見ることもできるだろう。そもそもOPの「齧りかけの林檎」はサビがシンコペーションで進行する。ゆえに、4拍目でのカット割りというのがよく馴染むのである。その他の箇所もメロディに合わせてカットしていることが多い。いずれにせよ、4拍目で割ることで、カットが繋がることに変わりはないわけだが、OPごとの固有性に踏み込むのであれば、そのメロディも交えて考える必要があるだろう。

*4:デンキ街の本屋さん』の登場人物。ゾンビが好きなため、「腐ガール」と呼ばれる。腐女子ではない。

*5:デンキ街の本屋さん』の登場人物。博覧強記の漫画フリークであることに因み、「ソムリエ」と呼ばれている。実際にソムリエなわけではない。

*6:ここを「接続」的に描くことで、腐ガールとソムリエの関係の近しさを表現していると見ることもできるだろう。

*7:オフビートの曲に対して、オンビートの手拍子をしてしまうことがあるだろう。カット割りもそういった手拍子と同様だ。

*8:正確に述べると、最初の「1・3・1」はカット割りで、最後の「3」はひおたんが笑う仕草が拍に一致する。

*9:『甘ブリ』OPはイントロが基本的にオフビートである一方で、Aメロ・Bメロは基本オンビートでカットが割られていく。そして、サビ終盤ではオンビートとオフビートのごった煮となる。

*10:カットが刻むビートはこの二つになるが、音楽が刻むビートにはもうひとつある。それは「裏拍」だ。この「裏拍」を映像演出に上手く落とし込むことができれば、さらにリズム感のあるOPができることだろう。何を隠そう、それをやってのけたのが『PSYCHO-PASS 2』OPである。詳しくは後編の脚注で述べる。

会話シーンにおける人物配置

アニメの会話シーンにおける人物配置にはおもに2パターンある。「対面」か「横並び」かだ。

対面だといかにも喋っています感があって、どちらかというと横並びの方が自然体に見える気がする。構えていない感じというか。では、横並びの方が対面よりも良いかというと、そんなことはない。重要なのは、場合によって使い分けるということだ。


たとえば、『天体のメソッド』2話の人物配置はその使い分けが巧妙だ。この回は主人公の乃々香が柚季と出会い、円盤を町から追い出そうとする柚季の活動になかば強引に参加させられるという話であった。

まず、乃々香と柚季の初対面のシーンは対面で見せる。横並びではない。お互いの素性がよくわかっていないのにいきなり横並びは変なのである。もちろん、柚季が一方的に乃々香に迫るのを見せるため、というのもあるだろうが、そういったディスコミュニケーションもまた、ある程度は初対面であるという部分から来るものだろう。



続くシーンではさっそく横並び。つまりある程度打ち解けたわけである。しかし、円盤に関する意見がかみ合わなくなってくると、柚季は激昂し出す。そこでまた両者は向き合ったりする。つまり、「向き合う/向き合わない」を使い分けている。横並びというのは、デフォルトで向き合っていない状態のことだ。しかし、だからこそ、そこであえて向き合うというのは被写体の強い意志を反映することになる。柚季は乃々香に賛同してほしい思いで身体を向け、対する乃々香は柚季の機嫌をうかがうように目を向けるのである。これは対面では描けない表現である。


横並びにおいて、重要になってくるのはそういった「視線の動き」だ。乃々香は常に柚季のことを気にしている。だから彼女は横並びであろうと、柚季の方に控えめながら目を向けている場面が多い。対する柚季は自分本位だ。柚季はそこまで乃々香に目を向けない。目を向けるときは、自分の思いをストレートにぶつけてくるときだ。この二人の非対称性はそういった横並びでの視線の動きから読み解くことができる。



たとえばこのシーンでは(ちゃんとした横並びではないが)、柚季は乃々香に目を向けて、円盤の反対活動に協力してくれたことに感謝の意を述べる。最初のカットでは、柚季は乃々香の方を見ていない。横並びでは前を向くからだ。しかし、だからこそ、「目を向ける」という動作(差分)を描けるのである。それに対して、乃々香はずっと柚季を見ている。描かれ方が違うのである。ストレートな柚季と、それに振り回される乃々香。主体的な柚季と受動的な乃々香。ここでも二人は非対称だ。



柚季は行き過ぎた行動を乃々香に制されてしまい、拗ねる。ここでの逆向きの横並びは両者の意志が正反対にあることのメタファーになるわけだが、重要なのは、それでも乃々香は柚季の方にちらっと目を向ける点だ。柚季の考えには同調できないが、それでもやはり気にしているのである。完全に対立しないニュアンスを乃々香の視線の動きが与えてくれる。もちろん、これもまた対面では描けない表現である。



物語終盤でふたたび「対面」が登場する。柚季が円盤の出現した島に行こうと乃々香を誘うシーンだ。まっすぐに乃々香を見つめる柚季には揺るぎない信念が感じられるだろう。しかし、対面というのはデフォルトで向き合った状態である。つまり、むしろここでは向き合わない状態に移行する者の方がより強い意志を反映するようになる。このシーンで言えば、乃々香が柚季に目を向けない部分である。目が向かないのがデフォルトの横並びでは描きづらい「拒絶」の描写は、対面にすることでストレートに描き出される。



そして、二人で池に落ちて横並びに戻る。が、ここで二人の関係性は逆転していることに気付く。これまで乃々香がずっと柚季に目をむけていたのが、逆になるのである。つまり、柚季が乃々香に目を向け、対する乃々香は目を向けない。これまで分かりやすく積み重ねてきた横並びの関係がここにきてひっくり返ったわけである。しかし、ここで乃々香は柚季を見限ったわけではない。



つまり、これまで柚季を気にしてばかりだった乃々香が自分自身で判断するようになったということだ。自分で考え、柚季に気を使うわけでなく、彼女に目をむけるように変わった。最後の横並びで向き合う配置は、彼女たちが非対称から対称の関係へと変化したことを示しているように見える。


ここまではシーンごとに「対面/横並び」が変わる演出であったが、一方で、同じシーンに横並びと対面を使い分ける作品もある。たとえば、『四月は君の嘘』の3話。

ここは、有馬がピアノを弾けなくなった理由を宮園に語るシーンである。最初は横並びの会話。途中から対面となる。この切り替えは、「何気ない会話」から「重要な会話」への移行と重なる。つまり、有馬がピアノの音が聞こえないのだと白状する箇所を境に、横並びから対面へと変わる。そしてその対面は、宮園が自身の伴奏者として有馬を任命するという見せ場まで続くのである。横並びが自然体であるなら、対面は真剣だ。目を見て話すということは、その言葉が相手に伝えたいものであるからなのだ。横並びを前座とし、続く対面のシーンを最大の見せ場としたのがこの場面なのである。


ところで、そんな対面を頻繁に使用した作品があった。『ガールフレンド(仮)』の1話だ。

椎名心実がクロエ・ルメールを探すのに、友人や先輩たちに会って話を聞いているわけだが、その際の会話シーンは全て対面である。では、対面のシーンがすべて見せ場だったかというとそんなことはない。何故なら、ここでは前座としての横並びがないからだ。この場合むしろ、対面にすることで登場人物を次々と紹介していくことが重要だったのである。じっくりと腰を据えて長話するわけでもなし、急ぎの用だったということもあって、ここで横並びするのも変だという話だ。


しかし、対面ばかりの中でも横並びになる場面があるのだとすれば、その横並びは特別なものになるだろう。実は1話にはそれがある。どこかというと、クロエ・ルメールと再会するラストシーンである。

ここでは二人が再会を果たし、ベンチに座って横並びとなる。「ベンチに座っただけだろ」と思われるかもしれないが、1話においては、ベンチに座って横並びになったことが重要であり、ここで対面じゃなくなったということが重要なのである。クロエとそれ以外を差別化しているのである。ここでの横並びは、彼女たちが1話を通して誰よりも打ち解けたことを示す証左となるだろう。

まとめ
・初対面は「対面」、打ち解け会ったら「横並び」
・「横並び」で向き合おうとする動作には、主体の強い意志が反映される
・「横並び」から「対面」への移行では「対面」こそが見せ場となる

ところで、会話は何も立ち止まってするばかりではないだろう。歩きながら話すことだってある。

歩きながらだと、当然「対面」はあり得ないわけだが、その代わりに縦並びをする可能性が出てくる。といっても、普通に楽しく会話したいなら、横並びが一番だろう。しかし、その会話が普通の会話ではないとき、縦並びというイレギュラーがしっくりとハマることがある。


たとえば『甘城ブリリアントパーク』4話のラスト。

ここでは、仕事のミスに落ち込む千斗へ、可児江が自身の境遇を語るシーンだが、縦並びで歩きながら話が進行する。そこで互いに目が合うことはなく、両者の関係は非対称に描かれるが、ゆえに前を行く可児江は千斗にとって非常に心強い存在に映ることだろう。そして、境遇を一通り話し終えた可児江は立ち止まり、千斗の方へ振り返る。そこで彼は千斗に助言する。この縦並びから振り向きへの移行はワンセットだ。向き合わない状態から振り向くことで、見つめ合うという行為が強調される。同時にそこでの発言も重要なものとなる。こういった非対称性や振り向きの動作は横並びではできない部分だ。


同様の例として、『四月は君の嘘』の4話から。

ここでは有馬が宮園に手を引かれ、ステージへと向かう。そしてステージ袖で宮園が一度立ち止まり、有馬の方を振り向く。そこでの宮園の一言こそが彼女の本質をつくものであり、それを受けて有馬の心にあるわだかまりは解消する。

まとめ
・縦並びが描く関係は非対称(前が強い、後ろが弱い)
・縦並びと振り向きはセット。核心をつく言葉は振り向いてから発言される


ところで、以上の話は「二人」で会話する場合の人物配置であった。実際には、二人以上の場合も当然ある。そうなってくると、配置よりもカッティングの影響力が大きくなることもあるだろう。たとえば『失われた未来を求めて』の部室のシーンなどがそうなのだが、部員6名が不規則に配置される(規則的に配置されたら逆に不自然だが)代わりに、カッティングで巧く繋いでいるようなところがあったように思う。


しかし、それは場合によりけりなところもある。いくら人数がいても、たとえば縦並びで一番後ろにいる人物というのは心に憂いを抱えていたりするものだ。というわけで、複数人でも配置が重要になることもある。あるいは、部屋や教室のレイアウトなどが配置を決定する場合もあるだろう。このあたり、考えていくとキリがないわけだが、「最善の配置」というのはどういった場面にも存在するものなのだろう。ある場面ではずらーっと横並びにさせる配置が最善であったとしても、別の場面では最悪になることだってきっとあるのだ。

『トライブクルクル』2話の演出を語る 後編

3.主観化する背景

・主観化する背景
ロングショットが主観化すれば、背景ショットも主観化することがある。たとえば、感情的なシーンでよく見られる「背景にカメラを逃がす」といった演出。そうして映った背景には「状況説明用の背景」以上の意味があるのではないだろうか、ということだ。

上のシーンでは、C-5とC-6の背景ショットが主観化している。一つ手前のC-4でリズムをとり始めるカノンに呼応するかのように、続く背景ショットでは、自販機のランプや発車標がBGMに合わせて点滅するのである。現実ではそんなこと起こり得ないわけだが、アニメではよくある。重要なのは、カノンの「踊りたい」という感情に、続く背景ショットが感化されたということだ。つまり、C-5とC-6の背景はカノンの感情に従属している。C-3のような、ただの背景ではないということだ。


・主観化するカメラワーク
付け加えると、C-4〜C-7においてカメラが動いているという点も感情表現的である。2話ではカメラは闇雲に動かない。カメラが動くのは基本的に「話のムードが変わるとき」か「場面転換・視線誘導のとき」だけである。ここでのカメラワークはむろん前者の場合である。カノンの「踊りたい」という感情・ムードの変化に同調し、PANしている。そういったPANの連鎖は、FIXのときとは異なる統一感あるムードを演出する*1


・感情表現は表情だけじゃない
前章からの話をまとめると、感情表現には色々あるということになる。アップショットだけではない。ロングショットや背景ショット、顔以外のショットも感情表現たりうる。現実では表情が豊かな人は総じて感情表現も豊かに見えたりするものだが、アニメでは少し違う。表情が良く見えないロングショットや表情が映らない背景ショットが人の感情を代弁することがある。2話はそうした点を演出にしっかりと落とし込んでいる。ゆえに、カノンやハネルの感情は鮮明に映る。

演出の着眼点
・ロングショットと同様に、背景ショットも主観化する場合がある
・カメラが動くのは話のムードが変わるとき
・感情表現は顔のアップ以外のショットも併用することで鮮明さを増す

4.ムードメーカー的演出

当然だが、物語には盛り上がる箇所がある。2話もまた多分にもれず、Aパートの終盤に盛り上がるシーンがある。

Aパートの構成は上のようになっているが、そのうち盛り上がるのはScene 8〜Scene 10である。しかし、上の展開だけ読んでも、同じことを繰り返すばかりで、特段何かしているようには見えない。つまり、Scene 10まで基本的にハネルはカノンのことを話し続け(Scene 1, 3, 6, 7, 10)、カノンはダンスのことで悩み続けるだけだ(Scene 4, 5, 9)。しかし、この繰り返しは「葛藤」や「些細な変化」を描くために重要であり、2話の肝である。変化には乏しいが、ムードを盛り上げることでその乏しさに意味を与えたい。



そこでセリフなどの「言語」の代わりに、シチュエーションや演出、音響といった「非言語」が重要となってくる。たとえば「物語的に重要な場所に赴く」といった行為は言葉以上に当事者の心境に影響し、ムードを転換させるトリガーとなることがある。そして、BGMはそうした転換を捕捉し、持続させる。その上で、最終的にムードをピークにまで盛り上げるのがムードメーカーだ。Scene 8がそれである。



Scene 8が描くのは時間経過だ。その中でハネルとカノンはそれぞれ物思いに耽る。情緒的に見せたいシーンだ。そこで非言語の力が大きく作用する。具体的には(1)セリフをいっさい入れず、(2)BGMを流し、(3)ハネルとカノンを「窓際の構図」で交互に映しながら、(4)PANを繰り返し、(5)ディゾルブで繋いでいる。通常とは異なる、ある意味で非日常的な演出。シームレスでムードが統一されていくこのような演出は、まるでハネルとカノンの感情が同期していくかのようだ。そもそも二人はダンサーとして互いのことを常に意識している。シームレスな演出はそんな両者を接近させるかのようにも見える。シナリオ的には時間が経過しただけ。物思いに耽っただけだ。しかし、その「物思い」は非言語を通してより鮮明なものとして物語に落とし込まれる。そのようにして盛り上がりはピークへと到達する。

脚本・演出の着眼点
・「繰り返し」は変化に乏しいが、主体の機微を捉える
・「非言語」はときにムードメーカーとなり、「言語」では困難な表現をカバーする
・連続PANとディゾルブの併用はカット間を限りなくシームレスなものにする

5.横の構図の不自然さ/自然さ

・日常から非日常へ
ムードのピークはBGMとともにScene 10まで継続する。それが変化するのはBGMが止んだときだ。Scene 11、Aパートラスト、物語が転換の兆しを見せる場面である。

BGMが止み、電車が遠くで通過する音が流れる。その環境音はさきほどのムードとは一変して、強烈な日常感を演出する(C-1)。続くカットは交通標識(C-2)。「止まれ/進め」というシンボルがカノンの心境を象徴するとともに、日常に紛れる記号性がカノンを非日常へといざなう。そして、登場するのがマスターT(C-3, 4)。ここまでの段取りは得体の知れない彼を出すためのお膳立てでもあったわけだ。


・横の構図の不自然さ
そして横の構図となる(C-5)。横の構図は平面的で演劇的であるがゆえに、交通標識などと同様に非日常感を演出することがあると前編で述べた *2。マスターTのアップからロングの横の構図への移行。この極端な繋ぎはどこかで見た。そう、前編で触れた「アップからロング」の繋ぎだ。しかし、それだけではない。このシーンでは、「縦の構図」と「横の構図」も混在する。


つまり、ここには「縦/横」と「アップ/ロング」という二つの二項対立がある。いずれにせよ、それらによる極端なカッティングは、与える印象もまた極端で劇的なものとするだろう。「演劇」と「映画」が行き来し、「日常」と「非日常」が行き来し、「感性」と「理性」が行き来するような感覚。それはまるで、カノンの揺れ動く心境と同調するかのようである。



ところで、五十嵐卓哉は横の構図を頻繁に使用する。横の構図では雰囲気が一転する。五十嵐卓哉の場合、横になるときは決まって重要なシーンである。アクションなどの見せ場ではなくとも、そこで交わされた会話には被写体の境遇に迫ったり、機微を捉えるようなニュアンスが含まれる。『トラクル』2話の横の構図も同様に重要なシーンであった。横の構図はここぞというところで使うものなのだ。


・横の構図の自然さ
横の構図において、左右に配置された二者は、最初のうちはまるで対等であるかのように描かれる*3。しかし、展開が進むにつれて、対等でなくなる場合がある。『トラクル』2話では、C-5とC-10はいずれも横の構図だが、位置関係が変化する。つまり、そこで対等性が崩れる。

横の構図は二者が近づいたり、離れたりするのを実直に描く。つまり、二者の距離を実直に描く。縦の構図では幾らでもごまかしが利くようなところが「横」ではその性質上できない。その意味において、横の構図はリアルだといえる。「縦がリアルで日常的、横が非日常的」といった概念は捉え方によっては逆転しうるものなのだ。


2話の場合は、横の構図を通して、マスターTがカノンに近づく。彼はいわば助言者だ。悩みを抱えるカノンに助けの手を差し伸べる。そこでの距離感というのは重要だ。初対面の相手だから、最初のうちは距離がある。カノンは警戒している。しかし、マスターTが一気に距離を詰める。その差は横の構図によってより実直に描かれる。近づいたという事実が強調して描かれる。その接近は強引に見えるが、壁をつくって悩み続けるカノンに対して、その強引さは突破口となる。横の構図は、その強引な接近を演出的に補強する。

演出の着眼点
・横の構図は平面的で演劇的であるがゆえに、不自然で非日常的。
・横の構図には、縦の構図などにはない中立性がある
・横の構図は二者の距離を実直に描く。ゆえにリアル

結言

『トラクル』2話で描かれる葛藤や憂い、それらはセリフだけ書き起こしてみてもややインパクトに欠ける。つまりそこで演出の出番となるわけだが、では演出が具体的に何をしているかというと、たとえば「日常/非日常」のようなギャップを描くのに使われる。色々書いたけれど、2話の魅力はそういった逆張りの上手さにあるのではないかと思う。ただギミックがあるから良いというのではなく、ギミックを逆張り的に差し込むのが良い。ミクロでは逆張りしつつ凹凸を演出し、一方でマクロに見ると段取りがしっかりと組まれている。2話はミクロなギミック、マクロなモチーフ、段取り、そのすべてが上手く噛み合っていたように思うのである。

*1:このように連続PANでムードを固めていく演出家に長濱博史がいる。現在放映中の『蟲師 続章』は音響や作画の質もさることながら、そのPANワークも非常に洗練されたものであると感じている。

*2:たとえば、『少女革命ウテナ』の影絵少女が横の構図だったことを思い出してほしい。

*3:「上手(かみて)」「下手(しもて)」の原則を考慮すると、対等とは言えないかもしれないが……。

『トライブクルクル』2話の演出を語る 前編

トライブクルクル』2話が面白かった。ストリートダンスを題材とする本作だが、毎回レイアウトや演出の質が高く、見ていて楽しい。中でも2話は他の話数とはひと味違い、ヒロインの女の子がダンスをやめようかと悩む話だったのだが、物憂げなニュアンスを演出面でよく表現しているように感じた。


本エントリでは、そんな『トラクル』2話の、特にAパートの演出について考える。Aパートにこだわるのは、カノンの葛藤を描いているのが主にAパートの方だったからである。演出的に難しいところであり、ゆえに見どころも多いように感じた。


なお、このエントリは二部構成である。前編では主にマクロで作品横断的な話をし、後編ではミクロな話をする。ややボリューミーだが、章や節ごとに各論となっているので、気になるところだけつまみ食いしていただければと思う。


≪2話のスタッフ≫
脚本:冨岡淳広 絵コンテ・演出:村野佑太
作画監督:遠藤江美子、あおのゆか、柳田義明(総)、西岡夕樹(総)
絵コンテ・演出の村野佑太は亜細亜堂の作品を中心に活躍されている若手の演出家である。『忍たま』や藤森雅也監督作品を追っているファンであれば、すでに知っているという方も多いのではないだろうか。2話の完成度もさることながら、序盤の重要な話数を託されたという、そのスタッフキャリアから見ても、信頼が厚い演出家であることが伺える。

1.『トラクル』2話の構図・ギミック

というわけで、まずはざっくりとどんな演出があったかを見ていきたいと思う。以下にまとめたのは、2話で使われた特徴的な構図とギミックである。

どうだろうか。「良い演出」尽くし!という感じが伝わるだろうか。この回はどこを切っても、金太郎飴のように「良い演出」が出てくる。子供アニメだが、大人っぽいギミックをしっかりと押さえている。もちろん、ただ闇雲に「良い演出」を放り込んでいるわけではない。ちゃんと文脈に沿って配置しているわけだが、そのような話は後編にまわす。ここでは、これらのギミックからいくつかピックアップして見ていきたいと思う。ものによっては適宜他作品を参照しつつ、基本的なポイントを押さえていく。



2話はダッチアングルが多い。ダッチアングルは空間の広がりを表現しやすく、構図を格好良く決めたいときに使われたりする。あるいは「斜め」であることから、非日常的で不安感や緊張感を煽る目的にも使われる。一方で、「斜め」ゆえに「傾きそう・動きやすそう」といった印象を与えることもある。つまり、静止画でありながら、今にも動き出しそうなニュアンスというのも含んでいる。実際に上記のいくつかは矢印の方に被写体やカメラが動く。ダッチアングル下でのそういった動きは負荷に対して従属的であるため、とても自然なものに映る*1



フォーカス送りやアウトフォーカスにはリッチ感がある*2。特にフォーカス送りは、「レンズの存在」を感じさせるものであり、パンフォーカスの場合よりも大抵はリアルっぽく映る(ここでのリアルは実写映画的という意味ではない)。もちろん、フォーカス送りには視線誘導の意味もあるわけだが、近年ではそれ以上にリッチ感が前に出ることが多いように感じる。とくに京アニあおきえい*3周辺、マッドハウス系などの撮影が強いところでは、フォーカス送りやアウトフォーカスはフィルムの完成度を決める一大要因となっている。


『トラクル』2話のフォーカス送りも、「視線誘導」とともに「リアル・リッチ感」の描写を兼ねている。構成を追うとわかるが、ここでのフォーカス送りを機に話のムードが一気にリッチ方面へと舵を切ることになる。パンフォーカスが常であるアニメにおいて、アウトフォーカスはある意味ではノイズだ。しかし、だからこそ、その違和感が話のテンションを一瞬で変えることだってあるのだろう。実際に2話がそうなのである。



交通標識は絵的に格好良いというだけに留まらず、それ自体がシンボルであるがゆえに含意的なものとして使われる場合が多い。たとえば、『トラクル』2話では「止まる」と「進行」という二つの標識が同時に置かれるわけだが、これはまさしく被写体であるカノンの「ダンスをやめるべきか/続けるべきか」という心情に同調したものと見ることができるわけである。


シンボル以外の用法もある。上記の『化物語』と『ハルヒ』はシンボル性・非日常性を主張しているのだが、対する『ノラガミ』と『デュラララ!!』は風景的なものとして描かれており、ある種の日常性を強調しているように見える。このように「交通標識」には二通りの用法がある。双方を峻別するのは「自然に見えるかどうか、風景として合点がいくか」といった点だろう。もちろん、演出の意図を正しく読解するには、文脈も同時に考慮する必要があるだろうが*4、演出的にシンボリックな標識というのは得てして不自然に設置されていることが多いものである。



「横の構図」もまた絵的に格好良く、リッチでレアなものに感じる。というのも、二者関係を示すレイアウトは基本的に「横」ではなく「縦の構図」だからだ。「縦の構図」は空間に奥行きを生み、映像にリアルさをもたらす。ゆえに重宝される。それに対して、「横の構図」というのは平面的であり、映画というよりは演劇に近く、あまり自然な構図とは言えないところがある。だから普段は使われない。レアなのである。しかし、ここぞというシーンで使うことで、効果を発揮することがある。特に、普段とは違ったある種の「非日常感」を演出したいときには「横の構図」は打って付けだろう。『トラクル』2話も「横」になるシーンでは雰囲気がガラっと変わる。ちなみに同じシーンに先述の「交通標識」も登場する。「横の構図」と「交通標識」の合わせ技で、非日常感を演出していると見ることもできるだろう。「横の構図」については後の章でも言及する。


◇◇◇


いずれにしても重要なのは、上記の演出がどれも「普通じゃない」ものとして使われているという点である。アニメにおいて「普通」なのはパンフォーカスや縦の構図なのだ。そこから逸脱したものはいわばノイズのようなもの。しかし「普通じゃない」ノイズだからこそ、一方でそれらが「アクセント」にもなったりする。上記では触れなかったが、「窓越し」や「窓際」の構図が2話ではよく出てくる。これらはアクセントというよりも、繰り返し使うことで意味を出そうとしている。「窓際」では人は物思いにふけるのが常である。つまり、カノンが悩んでいる様子をそうやって繰り返し繰り返し刷り込んでいるわけである。夕景のシーンが多いというのも、窓際と同様に統一のイメージを与えるものだろう。こういったモチーフが全体の雰囲気をつくり、その一方で「普通じゃない」ギミックが一発屋として使われ、アクセントとなる。それら二つを区別すると、2話の見方が整理されてくる。


ここまで横断的な話が続いたが、以降はもう少し2話に寄った話をしていく。

演出技法のまとめ
・ダッチアングル…空間的に広がりのある構図や、動きやすそうな構図をつくる。
・フォーカス送り…リッチでリアルな映像を演出する。視線誘導としての効果もある。
・交通標識…記号性が強いが、風景に同化することで日常感を補強することもある。
・横の構図…演劇的で不自然だが、非日常感がある。縦の構図とは対照的。


・モチーフ…2話では窓際・窓越しの構図や夕景など。全体の雰囲気を決定する。
・ギミック…アクセントになる。話のムードを変える。アウトフォーカスや横の構図など。

2.主観化するロングショット

・ショットサイズごとの演出効果
構図の三大要素のひとつに「ショットサイズ」がある。そのサイズが違えば、アップになったりロングになったりと、受ける印象も当然変わってくるだろう。たとえば、ショットサイズごとの演出効果については、以下のようにまとめられることがある。

つまりアップだと主観的(感情表現的)、ロングだと客観的(状況説明的)という区分である。そのように書かれると確かにそんな気もするのだが、しかしこれは言ってしまえば「文脈」を考慮しなかった場合の解釈だ。場合によっては、そうならないこともあるだろう。


・主観化するロングショット
そうならない例として、以下のシーンを参照してみよう。

このシーンではロングショットが二か所(C-2、C-6)あるのだが、それぞれの演出意図は異なる。どういうことかというと、一方は状況説明で、もう一方は実は感情表現となっているのである。


C-2は場面転換直後の状況説明のカットだ。「ここはカノンの部屋です」と説明している。しかし、C-6は違う。状況説明はすでに済んでいる。では、なぜロング?となるわけだが、ここはセリフを考慮することで察しがつく。つまり、ひとつ前のC-5ではダンスをハネルに褒められることでカノンは大きく揺れ動くわけだが、C-6では一転して消沈している。つまり、感情がポジティブからネガティブへと反転する。その反転は、アップからロングへの切り替わりと同調する。つまり、C-6のロングは状況説明ではない、カノンの感情に応じたものとして見ることができるのだ。


・「アップからロング」という逆張り
「アップ/ロング」の区別については、あるいは次のように考えることもできるかもしれない。C-5のアップショットでは、カノンはハネルとチームを組むことに対して、「感性的」に惹かれている。しかし次のカットでは打って変わって「理性」が幅を利かす。その結果、断念してしまったように見えるのである。

何が言いたいのかというと、ここではアップ=感性的、ロング=理性的なものとして使われているのではないかということだ。「ポジティブ/ネガティブ」よりも、こう峻別する方が汎用的かもしれない。

たとえば、ここでの「アップからロング」はまさしく「感性から理性」の移行に沿っているように見える。感性とは「ピコーンとひらめくこと」であり、理性とは「真面目で冷静になること」だ。そのふたつを行き来することで、人間味が出てくる。特に感性から理性という、ある意味で「冷めてしまう」ような感覚というのはきわめて日常的で人間的な表現であるように思う。「アップからロング」の繋ぎはそういった感情の変化に肉薄する。

演出の着眼点
・ロングショットは状況説明だけでなく、感情表現に使われることもある
・アップからロングという繋ぎにおいて、アップは感性的、ロングは理性的と解釈できる


≪後編に続く≫

*1:負荷に「服従」する動作があれば、逆に「抵抗」するような動作もありえるだろう。たとえば、『青い花』のOPでは「服従」と「抵抗」の両方を駆使した演出を見ることができる。

*2:アウトフォーカスの最近については次のエントリが詳しい。
アニメとデジタル一眼レフとカメラ女子について語りたかった - お楽しみはパジャマパーティーで

*3:あおきえいは被写体のフレームイン時にピンボケさせる演出をたびたび使用する。管理人の知る限りでは、『GIRLSブラボー』の頃にはすでにそういったことを試行していた。

*4:たとえば、上に挙げた『デュラララ!!』7話の交通標識は日常描写としての一面がある一方で、実はその文脈を考慮すると、シンボル的な一面も浮かび上がってくる。というのも、この回では頻繁に交通標識が出てくるのだが、それらは「背景」としてではなく、だいたいが「凶器」として出てくるのである。7話の主人公である平和島静雄は誰かとケンカをするたびに、持ち前の怪力を活かして道端の交通標識を引っこ抜き、凶器として振り回す。つまり、この話において交通標識は「標識」である以上に「凶器」のシンボルなのだ。日常風景としての交通標識が突如として凶器化する、そこから読み取れるのは、少年期の静雄にとって「平穏な日常」と「暴力沙汰」が常に隣り合わせであったということだ。

『野崎くん』に見る四コマアニメの原則 後編

目次

前編 四コマアニメの大原則
1.四コマ漫画⇒アニメの原則
2.ギャップで「四コマ目」をつくる
3.ギャップの具体例
4.四コマ目にならなかった四コマ目


中編 『野崎くん』の四コマ的表現
5.BGMは四コマ毎にだいたい1回流れる
6.四コマ目のカット割り(1カットの場合)
7.四コマ目のカット割り(2カットの場合)
8.四コマにかかる時間


後編 『野崎くん』のアニメ的表現
9.原作にはない芝居(1)「反応」
10.原作にはない芝居(2)「気付き」
11.セリフ・モード・カット
12.まとめ

9.原作にはない芝居(1)「反応」

アニメには、しばしば漫画にはない芝居というのが登場する。漫画ではその芝居がなくとも話は成立したのに、アニメではその芝居がないと話が掴みにくくなってしまう。そういった類の芝居である。


例えばそれは「小さな反応」や「小さな気付き」といったものだ。本章では前者の「小さな反応」について言及する。


さっそくだが以下の例を見てほしい。

このシーンで注目してほしいのは、赤枠で囲った佐倉が驚く反応である。これこそが「小さな反応」だ。


原作の三コマ目は御子柴がウエストショットで「はよーっス。野崎。あ?なんだそのちっこいの」と言うだけである。が、四コマであればそれでも話は通じる。ここで佐倉の反応を入れてしまうと、かえってテンポを削ぐことになるだろう。


しかし、アニメでは佐倉が驚くカットを入れている。長さとしてはほんの一瞬だ。しかし、この「反応」が後の布石となる。つまり、落ちのカットで、佐倉は御子柴について、聞いていた話と全然違うとして「うそつき!」と怒るわけだが、ここに繋がってくる。原作にない反応を入れたことで、「驚愕」から「憤慨」という段階が踏めるようになったのである。もし、ここで「驚愕」の布石がなければ、佐倉の感情変化は掴みにくいものとなってしまっただろう。ここでやっているのは、御子柴にカット数を集中させながら、同時に佐倉の感情変化にも目を向けるという、実に器用な演出なのだ。



段階的な変化を描いた例としてはこちらの方がわかりやすいだろう。堀が野崎の要領を得ない説明に対してさじを投げるまでを段階的に見せているのがわかる。このような布石を置くことで、四コマ目の落ちへ自然と繋がる。



こちらの例も同様である。原作にはない反応を経て、最後のカットで野崎の怒りが爆発する。原作ではこれらの反応を飛ばして四コマ目でいきなり怒る。



極めつけはこれである。原作にない反応を三つも挟み、友田に感情移入するまでの過程を段階的に描いている。カメラは野崎たちにどんどん迫り、カメラワークもFIXからPANへと変化する。わかりやすいほどに野崎たちの感情変化に沿った演出である。


ここで感情曲線を導入すると、さらにわかりやすくなるかもしれない。

かなりアバウトにつくっているが、わかってほしいことは「原作にはない反応」を挟むことで、野崎が負の感情を徐々に高めていくのが見て取れるということである。



POV化という謎な単語が出てきているがそれは置いておいて、ここで重要なのは野崎と御子柴の感情がどんどん高まっていく点である。


このように、「小さな反応」の積み重ねは段階的な変化を示し、それらはすべて四コマ目の「大きな反応」に向けた布石となる。いずれの例も布石を置くことで感情が急に飛ぶといった事態を防いでいる。


そしてこれは裏を返すと、感情の変化をスッ飛ばしたいときには「小さな反応」は入れるなということである。だが、そんなことをしたら感情の変化が掴めず話が分かりにくくなってしまうのではないだろうか。もちろん、上記の例ではその通りだ。だが、あえてそうしないことで落ちの面白さを引き出せる場合がある。実はそれこそが本稿の一番最初に出てきた「予想の裏切り」なのである。


ここでようやくわかるのは、落ちの種類が大きく二つに分けられるということだ。つまり、この章で紹介した段階的な「予想の裏切り」と、本稿の最初に示した非段階的な「予想の裏切り」である。


まとめ
四コマでは描かれないが、アニメでは描く芝居に布石としての「反応」がある。この反応を挿入することで、段階的な感情変化を描くことができる。

10.原作にはない芝居(2)「気付き」

四コマでは描かれないアニメ独自の芝居として、「小さな反応」以外に「小さな気付き」というものがある。


以下に例を示す。

「小さな気付き」とは、ぱっと見て、ハッとなることである。目を向ける仕草を入れてから、視線の先を見せる。そうしないと、アニメでは誰が誰・何を見たかわからないからだ。


四コマではこういった視線の問題が顕著になることは少ないように思う。急に時間が飛んだり、場所が飛んでも特に違和感がないのと同じで、ちょっとした「気付き」を飛ばしてもまったく問題がない。が、アニメではタブーだ。誰が見ているかが明示されない人物やモノのショットはPOVにならない。それは例えるなら、ツッコミが不在でボケをしているようなものである。



誰が見ているかがすでに提示されている場合、話の流れから明らかな場合、あるいは驚かせる必要がない場合、「気付き」の芝居は必要がなくなる。カットの順序も入れ替わり、見せたいものが先にくるようになる。


まとめ
目を向ける仕草「気付き」もまたアニメ独自の芝居である。POVでなければ成立しないような場面において、誰が誰・何を見ているかを明示することはアニメにおいて必須である。

11.セリフ・モード・カット

1カットに収容できるセリフ数やモード数(感情数)は構図やアクションの数で決まってくるように思う。例えば、アップショットで口パクするだけだと、一つのモード分のセリフしか収容できない。この章では、1カットに収容できるセリフ数・モード数を見ながら、アニメにおけるアクション付け、カット割りの意味を考えていく。


ということで、まずは以下のシーン。

カットによってセリフの量が異なることがわかる。特に一コマ目に対応するカットのセリフ量が飛び抜けて多い。


この一コマ目のカットのアクションを詳しく記述すると以下のようになる。

ここからわかるのは、短いセリフ毎に何かしらのアクションを入れているということである。1アクションにつき、セリフ一〜三文。



このシーンはだいぶ変則的で、1カットで一コマ目の途中から四コマ目最後までの展開を収容しているのだが、注目したいのは、前野が移動したり、手の位置を様々に変えたりしている点。つまり、小刻みにアクションをつけているのである。そうすることで、四コマ分のセリフ数を1カットに詰め込んでいる。



ここで重要なのは、双方の例がそれぞれセリフをモードごとに分けて、それに合ったアクションをつけているという点だ。ただ闇雲にセリフ・アクションを分けているわけではない。それらは被写体のモードと対応している(上の前野の例でいえば、「いやいや本当に」で遠慮、「あ、でもせっかくだし」で翻意、「都センセーの原稿です」で白状のモードといった具合である)。アニメではこのようにモードで小分けしないと、状況が伝わりづらくなってしまうところがある。



セリフをモードごとに分けてアクションをつける。この例で注目したいのは、「あの人は俺の」というところでポン寄りするところだ。一番言いたいセリフをアップにすることで強調している。セリフの強調というモードが飛躍する瞬間にカッティングしている。1カットか2カット以上かの分水嶺はこの辺りにありそうだ。



余談だが、アクションをつける他にも横PANで絵を持たせる方法もある。このシーンは4話なのだが、4話は他の回よりもこういったPANを頻繁に使用していた。



横顔になるとまたセリフの分け方が変わってくる。そもそも横顔は変化に乏しい。その代わりにある一定の強いモードを相手に向けるのに長けている。が、表情(モード)をコロコロ変えたい場合、横顔は必ずしも適切ではないのかもしれない。


続いて、アクションではなくカットをモードに対応させていく例について示す。

カットをモードに対応させる(モードごとにカットを割る)ことで、1カットの場合とはまったく違う光景がそこには生まれる。堀と鹿島のアップショットの往復、手の動きなどの些細な所作はいわば飛び飛びのモードである。これらは見ている側の感情を飛躍させるものだ。1カットではここまでの飛躍は表現しきれないだろう。視聴者はこのような(このとき、顔はこうでした。手はこうでした。目はこうでした。といった)複数の飛び飛びのモードを見ることで、はじめて被写体の感情というのを立体的に捉えられるようになるのだ(三コマ目と四コマ目とでカット割りが極端に異なる理由もこういった背景に基づくものであろう)。



感情の機微はカットを割らないと伝わらない。様々なアングル(といっても十二分に吟味されたものだが)の蓄積によって、ようやく視聴者は被写体の心情に迫ることができるのである。1カットの場合と比較すると(このシーンであれば最後の落ちのカットと比較すると)、感情の密度がまるで異なるという認識がここでは重要だ。


まとめ

セリフはモードごとにアクションがつけられていく。モードが飛躍する場合、飛躍させたい場合はその都度カットする。飛躍するモードの蓄積によって被写体の感情が浮き彫りとなる。

12.まとめ

本稿の初めに、4コマ目っぽいカットということで以下のカットを示した。

1話終盤のワンシーンであり、佐倉は野崎に二度目の告白をしようとするのだが、上手くできず、結局野崎から二枚目のサイン入り色紙を渡される。


この説明だけだと、ただの面白い光景なわけだが、果たして前のカットを遡上して見てみるとその印象が変わってくる。最後にこのシーンの演出を、本稿の総括を交えつつ見ていきたいと思う。

このシーンで何より注目すべきは、三コマ目に対して11カットも費やしていることだ。そこで愚直に描かれるのは佐倉の「小さな反応」の蓄積であり(8章)、飛躍するモードの蓄積である(10章)。BGMは四コマ目の2カット前という変則的な位置で終わり(4、5章)、告白直前に最大のピークを持ってくる(3章)。一拍置き、佐倉が見せるのは息を吸う所作(10章)。この時点で、まだ予想は裏切られていない(2章)。これだけ真面目な段取り(3章)だ。続く言葉が「好きです!」であるに違いない!が、予想に反して、四コマ目で告白失敗。原作に極めて忠実な構図(6章、7章)をもって面白く描かれてしまう。この一瞬でアニメは四コマ的コミカル表現に回帰し、三コマ目までのアニメらしさは跡かたもなく消失する。後に残るのは、告白に失敗したことへの苦笑と虚しさである。


が、それだけでは終わらない。この佐倉千代という残念な少女に肩入れしたくなってくる。それは三コマ目がまぎれもなく“佐倉千代という人間を描いた”ものであるからだ。そこにアニメであることの醍醐味を感じる。


四コマアニメが特殊であることの一端に、「三コマ目までのアニメ的表現」と「四コマ目の四コマ漫画的表現」が混在する点があるように思う。どれだけ真面目なアニメ的表現を盛り込んでも、最後は四コマ的な落ちに帰結する。が、アニメには「ギャップ」を操る術がある。その切り札が、原作にないアニメ独自のダイナミズムをまれに生み出すことがある。


アニメ『月刊少女野崎くん』は普段はコメディだけれど、たまに少女漫画になる。その答えはきっとここにある。



そんなわけで、本稿は以上である。最初は一つの記事にまとめるつもりが結局前・中・後編の長々とした超大作(笑)となってしまった。色々と至らない点ばかりであったと思うが、本稿を読んでくださった方々が、これを「叩き台」に、あるいは批評の肥やしとしてくれるようなことがあれば、これほど幸いなことはない。

『野崎くん』に見る4コマアニメの原則 中編

目次

前編 四コマアニメの大原則
1.四コマ漫画⇒アニメの原則
2.ギャップで「四コマ目」をつくる
3.ギャップの具体例
4.四コマ目にならなかった四コマ目


中編 『野崎くん』の四コマ的表現
5.BGMは四コマごとにだいたい一回流れる
6.四コマ目のカット割り(1カットの場合)
7.四コマ目のカット割り(2カットの場合)
8.四コマにかかる時間


後編 『野崎くん』のアニメ的表現
9.原作にはない芝居(1)「反応」
10.原作にはない芝居(2)「気付き」
11.セリフ・モード・カット
12.まとめ

5.BGMは四コマごとにだいたい一回流れる

3章において、前振り・落ち間のギャップをつくる手法にBGMのON/OFFがあると述べた。これはつまりギャップのある箇所にBGMがある可能性が高いということだ。更に言えば、四コマごとにBGMが一回流れれば、ギャップがつくれるということになる。


以上の話はあくまで予想にすぎない。では、実際にはどうなっているのか。本章ではアニメ『野崎くん』のBGMの使われ方について見ていくこととする。


まず一つ目の例を示す。下の図は3話Aパートのある一連のシーンをカットごとに切り取り、四コマごとに改行したものである。水色の矢印がBGMが流れている範囲であり、赤線の区切りがコマとコマの節目に当たる(カットをまたぐコマもあったので、区切りがアバウトな箇所もいくつかある)。

図からわかるのは、このシーンでは最下段を除き、四コマごとに一回BGMが使用されているということだ。つまり先の予想はだいたい的中したというわけである。


が、よく見てみるとおかしな点がある。つまり、ギャップの箇所でBGMがON/OFFしていないものがあるのだ。具体的には、一、三、四、六段目である。


ギャップの箇所でBGMが切れなかった理由としては
(1)それぞれの落ちの性質に合わせたため
(2)落ちにアレンジを加えたため
等が考えられる。が、いずれも推測の域である。確実に言えるのは、BGMをON/OFFするかしないかで、ギャップに強弱ができているということだ。つまりこのシーンの落ちはそれぞれにバリエーションがある。


では、ギャップの箇所で切れなかったBGMは、一体何のために流れていたのだろうか。ギャップに関与しないのであれば、流れなくてもいいはずだ。…が、無論そんなわけがない。四コマアニメ以外のアニメでもBGMは使われるのである。むしろ、ギャップをつくる以外での使われ方の方が一般的なのだ。


ここから先はあえて例外のみを示していく。それらを参照する中でBGMのもう一つの一般的な使われ方について見ていきたいと思う。


(1)話のまとまりごとにBGMを流す

この例で注目してほしいのは、四コマ間をまたがってBGMが流れる箇所が二つある点だ。何故そうしたのかというと、それらの箇所が話的に繋がっていたためである。


つまり、このシーンは
・一、二段目…野崎と宮前が電話する
・三段目…やや時間を置いて、野崎が自身の漫画を内省する
・四、五段目…学校で佐倉と瀬尾が野崎からデコ弁をもらう
・六段目…御子柴が野崎のデコ弁を食べる
という四つに分けられ、それぞれにBGMが宛がわれている。四コマごとではなく、話のまとまりごとにBGMを流したというわけだ。


(2)四コマに対してBGMが二回流れる

ここでは一つの四コマに対してBGMが二回流れる。何故そうしたかというと、二つのBGMの間にテンションのギャップがあるからだ。つまり前者は若松の、後者は野崎のテンションである。異なる二つのテンションをBGMを分けることで表現しているのである。



このシーンは二段落ちということで、双方のボケにBGMが宛がわれていることがわかる。また余談ではあるが、ボケに対する二つのツッコミに明確なテンションの差が見られるのも面白い。特に二つ目にインパクトを持ってきていることがわかりやすく見て取れる。


(3)四コマ間の断絶を無くす

ここは1巻64、65ページと66ページの一コマ目にあたるシーンである。ここでは二種類のBGMが流れるわけだが、その切り替わる位置が特殊である。つまり、二つ目のBGMが64ページの三コマ目ラストという中途半端なところから流れ出すのである。そしてそれが65ページの四コマ目まで流れ続け、二つのエピソードにまたがる。


何故こうしたのか。一つは佐倉のテンションの変化に合わせたのだろう。が、それだけではない。BGMがまたぐことで、佐倉が御子柴の元を去って、野崎にぶつかるまでの一連がスムーズに繋がってくる。つまり、ここではエピソード間の断絶を弱めているのだ。


そして、二つ目のBGMはギャップの箇所で途切れず、66ページの1コマ目で音が止む。これもまた不規則だ。が、それには意味がある。何故なら、続くカットで鹿島が初登場するからだ。そこに最大のインパクトを持ってきているのである。


以上をまとめると、BGMは話のまとまりや被写体のテンションに合わせて流すものだということである。それは時に原作の四コマ間にある断絶を、アニメではさも無いもののように繕えたりもする。それほどBGMによる結束力というのは強いのだ。


ギャップの位置でON/OFFというのは、そんな結束を崩す行為であり、BGMの使われ方としては実はイレギュラーなものなのである。が、それを頻繁にやってのけるのが四コマアニメだ。頻繁にやるからこそ、BGMは四コマごとに一回流れるという原則も出てくる。そこに四コマアニメ独自のシステムが見えてくる。


まとめ
BGMは原則として四コマ毎にだいたい一回流れる。それはBGMが話のまとまり毎に流れるという特性とギャップの位置で切れるという原則の双方に起因するものである。

6.四コマ目のカット割り(1カットの場合)

一〜三コマ目のカット割りはいろいろあれど、四コマ目のカット割りに関しては、以下の二つにほぼ分類できる。
(1)四コマ目の構図をそのまま使って1カットで
(2)ボケとツッコミを分けて2カットで


基本的にはこのどちらかしかない。まれにセリフの途中でカットを割ったり(尻のセリフを強調するときなど)、カットを割りまくったり(ボケをさまざまなアングルで撮るときなど)することがあるが、大半は上記の1カットか2カットかである。


この章では、その二つのうち前者の「1カット」を扱う。


といっても、「1カット」は実に馴染みの深いものだ。説明するのもなんなので、以下に例を並べる。

四コマアニメを見ていれば、幾度となく見る光景である。大半が原作の四コマ目の構図をほぼそのまま使用している(稀に構図をガラリと変えるものもある)。止め絵の場合もあれば、QTBやTBといったカメラワークを併用する場合も多い。いずれにせよ「1カット」の表現は極めて四コマ漫画的な表現だと言える。


一方で、ツッコミが画面に映らないパターンがある。いわゆる「コマ外ツッコミ」と呼ばれるものだ。

これらもまた原作の構図に忠実であり、漫画に触れていればそれなりに馴染みのあるものなのではないだろうか。しかしこの演出、アニメ『野崎くん』においては実はあまり使われることがない。上に挙げた例の少なさがその証拠である(管理人が探すのをサボったわけではない)。


では、漫画の「コマ外ツッコミ」はアニメではどうなっているのか。


実はその答えこそが「2カット」なのである。


まとめ
四コマ目のカット割りには基本的に「1カット」か「2カット」の二種類しかない。「1カット」には、当事者が全員映るパターンとコマ外ツッコミのパターンがある。いずれも、漫画の構図をそのまま引用する場合が大半である。

7.四コマ目のカット割り(2カットの場合)

四コマ漫画の「コマ外ツッコミ」はアニメでは「2カット」になる。まずは具体例を見てみよう。

このように、漫画では「コマ外ツッコミ」なのが、アニメではうさ耳姿の野崎と御子柴のカットに分けている。前章の「コマ外ツッコミ」と同じように「1カット」で収められそうにも見えるのだが、何故かそうしていない。


何故だろう。


ここは実際に見てもらった方がいい。以下に「2カット」のパターンを複数並べた図を示す。見ていくうちに、その傾向が掴めてくるのではないだろうか。

つまり、2カット目で電流が走っていたり、ドヨーンとなっていたり…。冗談を言っているわけではない。どのシーンを見ても1カット目と2カット目、双方のテンションには大きな開きがあるように見えるのだ。



ギャップをつくる手段の一つに、カッティングがあったことを思い出してほしい。ここでやっているのはまさしくそれなのである。カットを割ることで、絵を瞬時に変え、大きなギャップを作っているのだ。イメージBGがついたり、変顔になったりといった瞬時の変化はカット割りなくして作り出せないものなのである。


ここに「1カット」と「2カット」の違いがある。


そもそも「コマ外ツッコミ」はアニメでは強調するのが難しい表現である。何故なら、ツッコミ役が画面に映らないからだ。絵の力に頼らず声だけで表現しなくてはいけない。単純な話として、感情を誇張したいのであれば何よりもまず顔を映した方が良い(込み入ってくると、顔を映さないことで感情を表現できるという話も出てくるのだが、ここでは関係しないものと考えている)。


「テンションの開き」について、もう少し考えてみたい。通常、四コマ目でツッコミが叫んでいるような場合は、アニメにおいて「1カット」になることが圧倒的に多い。その際もボケとの間にテンションの差はあるわけだが、それは「1カット」内に入る程度の「テンションの開き」なのである。唐突だが、ここで「叫ぶ」という行為に着目してみる。漫画においては「叫ぶ」行為は「爆発吹き出し」によって表現されるのはよく知られている。

吹き出し」にはいくつか種類があるが、四コマ目のツッコミで使われるのは上の三つのうちのどれかである場合が多い(画像は吹き出し素材専門サイト「フキダシデザイン」から借用)。この三つのうち、ボケとの間に一番大きなテンションの差を作れるのはどれだろうか。先に挙げた「2カット」の例をこの三つで分類してみると面白い結果となった。

つまり「2カット」の場合、「フラッシュ吹き出し」がその大半を占めるのである(コマ外ツッコミのみならずコマ内ツッコミまでも)。これは偶然にしては出来過ぎている。「フラッシュ」とは心の叫びを表す表現だ。口元は動かない。が、心情は激変している。この矛盾を的確に捉えるには演出で補うしかない。そこで、「カットを割ってイメージBG」となる。こうすることで、ボケ役がいる現実世界からツッコミ役の心の中へと一瞬でダイブできるのである。


以上をまとめると、「2カット」になる場合には大きく分けて二つの要因がある。
(1)コマ外ツッコミ⇒テンションの差を描きたい!顔を映したい!
(2)フラッシュツッコミ⇒テンションの差を描きたい!心の叫びを表現したい!
双方を満たす場合はだいたい「2カット」になる(もちろん片方だけでも「2カット」になる可能性は十分にある)。コマ外ツッコミで「1カット」となった前章の例は、この理屈に基づくのなら、いずれもツッコミがそれほど叫んでいなかった。だから「1カット」になったのだと説明することができる。いずれにせよ、重要なのは「2カット」にすることでテンションの急激な変化を描けるということだ。



同じ「コマ外ツッコミ」でもツッコミの顔を映すことで「1カット」にするといったパターンもある(これまでの「1カット」の例は顔を映さないパターンであった)。漫画から構図を変えたわけである。顔を映せば「感情の誇張」という問題はクリアできるだろう。が、クリアできない問題がある。それがテンションの開きである。上の二例はいずれもイメージBGが統一されている。その中において、ボケとツッコミの間に「2カット」のような極端なテンションの差をつくることは難しい。「1カット」の手法は、1カットが許容できるテンションの範囲において有効なのである。これらの例はいずれも声に出して突っ込んでおり(心の叫びでない)、カットを割ってイメージBGで補佐する必要性の薄いものなのだ。


最後に例外を二つ紹介する。

このシーンでは4コマ目だけに4カットも使っている。が、この四コマ目は内容をかなり詰めており、カットを割ることにも納得がいく。ちなみに、このシーンは三段落ちだが、最後のカットでツッコミに変化をつけることで、その流れを断ち切っていることがわかる。最初2つのツッコミは「1カット」の類型だが、最後のそれは「2カット」の類型である。



「御子柴。セーラー服着てみないか?」を2カットに分けている。これは後ろの強調したい言葉にインパクトをつけるための分け方である。こういった手法は四コマ目に限らず、カット割り全般によく見られるものである。


まとめ
四コマ目を「2カット」にすることで、「1カット」では表現することの難しいテンションの落差を見せることができる。コマ外ツッコミやフラッシュツッコミは「2カット」になる場合が多い。

8.四コマにかかる時間

一コマ目から四コマ目までにかかる時間はだいたい一緒である。だいたいといってもかなり大雑把ではあるが。


以下に示すのは、アニメのあるシーンにおいて、一コマ目から四コマ目にかかる時間をまとめていった図である。シーンを選ぶ際は原作とセリフがほぼ同じであることを条件とした。

この図からわかるのは、四コマにかかる時間というのがだいたい30秒〜40秒くらいだということだ。原作から内容を極端に削ると10秒台。元々のセリフ数が少なかったり、漫画のコマを直でアニメにしたような場合、トントン拍子で進んで20秒台。セリフが多かったり、原作にはない(が、アニメでは必要な)カットや芝居がいくつか入ってくると40秒台。といった具合である。


内容を大幅に盛ると、1分を超えるようなものも出てくるが、そういったものは話の頭や終わりに来る傾向がある。途中にはあまり入らない。そうすることで今から始まりますよとか、ここで終わりですよといった合図をしているのだとも言える。


これはあくまで自分の体感だが、20秒、30秒、40秒の違いはあまり気にならない。が、その周期性に慣れてくると、1分を超えるようなものが来たときにさすがに気になってくる。気になるからこそ、それが終わりの合図にもなり得るというわけだ。体感時間というのは適当なようでいて意外と侮れないところがある。


そしてこの“だいたいの周期性”というのが、4コマ漫画の厳密な周期性に対して、アニメが下した最善手だ。“だいたい”でいいのである。体感時間が曖昧な私たちは、例えば「30秒きっかりに落ちがくる」という厳密な周期性をアニメに対してまったく求めていない。


まとめ
一コマ目から四コマ目までにかかる時間は、だいたい30秒〜40秒くらいである。


≪後編に続く≫

『野崎くん』に見る四コマアニメの原則 前編

月刊少女野崎くん』には「四コマ目」っぽいカットというのが頻繁に出てくる。

例えばこのカット。いかにも「四コマ目」っぽいカットだ。原作が四コマ漫画なので当たり前といえば当たり前なのだが。ちなみにこのシーンは原作1巻15ページの四コマ目にあたる。


四コマ漫画といっても昨今では四コマ目で必ずしも落ちない「ストーリー四コマ」「非定型」といったジャンルも多い。が、『野崎くん』は四コマ目で必ず落ちるタイプの四コマである。いつだって四コマ目に最大のインパクトがあるわけだ。


故にアニメの『野崎くん』でも「四コマ目」にあたるカットは最もわかりやすく示す必要がある。上の例のように、イメージBGやQTBといった誇張表現を使ったり、漫画と同じキャッチーな構図を再利用して、今ここが「落ち」であることを盛大にアピールする必要があるわけだ。


が、アニメ『野崎くん』では、時として「四コマ目」であることがわかりにくいカットや絶対にわからないようなカットが出てくることがある。わざと「落ち」のインパクトを弱めたり、「落ち」ではないものにしていたりする。セリフが原作と全く一緒にもかかわらず、だ。それは決してボケ潰しなどではなく、ちゃんとした意味があってのことなのだが…。


ここで重要なのは、同じ「四コマ目」のカットでもわかりやすいものとわかりにくいものがあるという点である。


そもそも四コマ漫画はコマが何番目にあるかという情報に強く縛られるものだ。どんなコマでも四コマ目にあれば落ちになり得る、という指摘はあながち間違いでもない。が、アニメにはそういったコマ位置の力が働かない。故に別の何かで「四コマ目」であることを示してやる必要がある。


その別の何かとはすなわち“演出”である。


本稿では『月刊少女野崎くん』という四コマアニメの演出について考えていく。そこでまず初めに考えるのは「わかりやすい四コマ目をつくるための原則」である。そこを起点とし四コマアニメ独自の演出形態を探っていく。


先に本稿の結論を言ってしまうと、その“原則”とはツッコミやボケの前に「テンションのギャップをつくること」である(先ほどのイメージBG等もこの原則の中に含まれる)。コマの位置を知り得ないアニメにおいて、そのギャップを大きくすることこそが「四コマ目」であることをアピールする唯一といっていい手段なのである。

目次

前編 四コマアニメの大原則
1.四コマ漫画⇒アニメの原則
2.ギャップで「四コマ目」をつくる
3.ギャップの具体例
4.四コマ目にならなかった四コマ目


中編 『野崎くん』の四コマ的表現
5.BGMは四コマごとにだいたい一回流れる
6.四コマ目のカット割り(1カットの場合)
7.四コマ目のカット割り(2カットの場合)
8.四コマにかかる時間


後編 『野崎くん』のアニメ的表現
9.原作にはない芝居(1)「反応」
10.原作にはない芝居(2)「気付き」
11.セリフ・モード・カット
12.まとめ

1.四コマ漫画⇒アニメの原則

本稿を始めるにあたり、まず四コマ漫画とそのアニメ化に関する原則を三点提示することで、その認識をある程度共有しておきたいと思う。


その三点とは
(1)四コマ漫画の構成「起承転結」について
(2)各コマと「起承転結」との対応
(3)各コマをアニメ化した際に見られる代表的な演出
である。以下に作成した対応表を示す。

あくまで定型四コマ(四コマ目で必ず落ちる四コマ)の基本形である。例外も多い。それでもこの表から示唆されることは多いように思う。中でも重要であり本稿で着目したのは、(3)に記載された様々な演出によって「前振り」と「落ち(ボケやツッコミ)」の間にテンションのギャップがつくられるという点である。

2.ギャップで「四コマ目」をつくる

漫才では前振りと落ちの間にギャップをつくる。そのギャップを受け、人は笑うのだ。ではそのギャップとはどんなものだろうか。たとえばそれは「予想の裏切り」から来るものだ。


『野崎くん』から例を出すと
・告白したつもりが、何故かサイン入り色紙を渡された(アニメ1話)
・自転車に二人乗りできると思ったら、四輪自転車(タンデム車)だった(アニメ1話)
・可愛い系男子かと思ったら、チャラ男だった(御子柴初登場シーン)
・男かと思ったら、女だった(鹿島初登場シーン)
等々…。予想していたこととは全く違うことが起こる。これが「前振り」と「落ち」の間にあるギャップの正体だ。


このギャップを引き立てるために、「前振り」ではタメをつくり、「ボケ」や「ツッコミ」で誇張表現(QTBやSE)を使用する。そうすることで映像にテンションのギャップが生じる。ギャップが生じることで「四コマ目」が「四コマ目」として初めてアニメに定着する。

3.ギャップの具体例

では、どのようにしてギャップがつくられるかというのを具体的に見ていきたいと思う。


以下にアニメ3話Aパートでのあるやりとりを例として示す。原作では1巻71ページ一コマ目〜四コマ目にあたる部分である。シーンの状況を詳しく伝えるため、各カットの画像、そこでのセリフ、SE、カメラワーク、BGMの流れる範囲(矢印)を合わせて載せている。また、各カットが何コマ目に該当するかも提示している。このシーンでは1カットが一コマに綺麗に対応した。さらに、各コマと起承転結との対応関係、ギャップの位置も表記した。

ここでの話は「佐倉と御子柴が自分たちのグループを鹿島にどう説明しようかと苦慮するのに対して、野崎が粗雑な回答を述べる」というものである。ギャップの位置は予想が裏切られる箇所、つまり図にも書いてある通り、三コマ目の御子柴(承:前振り)と四コマ目の野崎のバストショット(転:ボケ)の間である。


では、ギャップに由来するアニメの手法はどれか。図の情報をもとに、以下に五つ挙げる。
(1)BGMのON/OFF
(2)二コマ目、三コマ目におけるタメ(前振り)
(3)カッティング(カットを割ったということ)
(4)カメラワークの変化(TUからFIXへ)
(5)クローズアップからミドルショットへ
(6)モノローグから実際のセリフへ


このようにギャップの前後では実に様々な要素が変化していることがわかる。これらの要素によって大きなギャップがつくられ、四コマ目がアニメの中に定位される。ここまでやってようやく「落ち」が視聴者にしっかりと伝わるのである(上記の手法以外にも、声優による演技ももちろんギャップを生むものだ。しかし、本稿ではあえて演出的手法のみに着目することで、演出の持つ力そのものを浮き彫りにしたいと考えている)。


ギャップの手法を種類別にみると、視覚〈(3)、(4)、(5)〉、音響〈(1)、(6)〉、時間〈(2)〉と分けることができる。つまり、映像がもつ全ての要素において変化が見られるのである。特に上の3つ(1)(2)(3)は使用頻度が高い。


付け加えると、実はこのギャップ以外に小さなギャップがある。それは転(ボケ)と結(ツッコミ)の間にあるギャップであり、QTBとSEに起因するものだ。上の例では承(前振り)と転(ボケ)の間に最大のギャップが来たが、ギャグの種類・展開によってはギャップの位置が転と結の間にずれ込むこともある。


もう一つ例を示す。アニメ6話Bパートより。原作では2巻135ページの二コマ目〜四コマ目に該当するシーンである。

話としては「目を閉じても絵が描けるかと思ったら、全然描けなかった」というものである。ギャップは三コマ目のラストカット(堀、佐倉、若松の横顔)と四コマ目(野崎が描いた絵)の間にある。


図からギャップに由来するアニメの手法を挙げると
(1)BGMのON/OFF
(2)三コマ目におけるタメ(前振り)
(3)カッティング
(4)ボケでのSE
(5)TB
となる。


一つ目の例と同様にBGMやタメが効果的に使われていることがわかる。


異なる点を挙げるとすれば、タメの作り方である。一つ目の例では「前振り」のセリフが多かったため、自然と尺が伸び、それがタメとなっていた。しかし、こちらの例だとセリフが少ない。では、どうしたか。カットを増やしたのである。原作にはない野崎がペンを動かすカットや、堀たちの反応を挿入することで、意図的に尺を伸ばしている。これは時間の経過を描けるアニメならではの対処である。


細かい指摘をすると、「四コマ目」が2カットに分かれているのも先ほどの例とは異なる。これについては、カットを分けることでボケとツッコミの間にまた別のギャップをつくっているということなのだが、詳しくは7章で述べる。


まとめ
ギャップには大きく分けて、視覚的変化、音響的変化、時間的変化の三つがある。中でもBGMのON/OFFやカッティング、ボケ前の長いタメ(前振り)、ボケる際のSEは頻繁に使われる手法である。

4.四コマ目にならなかった四コマ目

ここまでの話をまとめると、「四コマ目」をつくるにはギャップをつくればいいという話になる。これは裏を返せば、四コマ漫画の「四コマ目」をアニメで「四コマ目」にしたくないのであれば、ギャップをつくらなければ良いということだ。


しかしそんな、わざわざ「四コマ目」を「四コマ目」にしない、なんてことがあるのだろうか、と思う方がいるかもしれない。それは原作の落ちを潰す行為にも等しい。


だが、これがあるのである。


5話Bパートの終盤より、佐倉が野崎に弁当を返すシーンを見てほしい。

このシーンには落ち前のギャップというのが存在しない(BGMが途切れない、四コマ目でカットが割られない、誇張表現が一切ない)。野崎と佐倉の心温まるやりとりを描いている。少しも落ちていない。むしろ佐倉の健気さに野崎が一瞬心寄せられたようにすら見える。アニメにおいてこのシーンはおそらく重要な布石なのだ。


では原作ではどうなのかというと、ちゃんと落ちている。野崎がマミコになろうキャンペーンを懲りずに継続しようかと言うのを佐倉が引き気味に断わっており、絵的にも滑稽なものになっている。


アニメと原作とでセリフが一切変わっていないにも関わらず、演出を変えることでかくも印象的なシーンに変化したのである。受け手はセリフだけを聞いて、シーンの状況を判断してはいない。映像から来るすべての情報を見聞きし、そこからギャップを感じ取ることで、状況を見極めているのである。


まとめ
ギャップをつくらないことで、原作では「四コマ目」のカットを「四コマ目」でなくすこともできる。「落ち」にしたくないコマや「落ち」にしないことで全体のテンポが良くなるコマに対しては、こういった手法が用いられる。


≪中編に続く≫