『野崎くん』に見る四コマアニメの原則 後編

目次

前編 四コマアニメの大原則
1.四コマ漫画⇒アニメの原則
2.ギャップで「四コマ目」をつくる
3.ギャップの具体例
4.四コマ目にならなかった四コマ目


中編 『野崎くん』の四コマ的表現
5.BGMは四コマ毎にだいたい1回流れる
6.四コマ目のカット割り(1カットの場合)
7.四コマ目のカット割り(2カットの場合)
8.四コマにかかる時間


後編 『野崎くん』のアニメ的表現
9.原作にはない芝居(1)「反応」
10.原作にはない芝居(2)「気付き」
11.セリフ・モード・カット
12.まとめ

9.原作にはない芝居(1)「反応」

アニメには、しばしば漫画にはない芝居というのが登場する。漫画ではその芝居がなくとも話は成立したのに、アニメではその芝居がないと話が掴みにくくなってしまう。そういった類の芝居である。


例えばそれは「小さな反応」や「小さな気付き」といったものだ。本章では前者の「小さな反応」について言及する。


さっそくだが以下の例を見てほしい。

このシーンで注目してほしいのは、赤枠で囲った佐倉が驚く反応である。これこそが「小さな反応」だ。


原作の三コマ目は御子柴がウエストショットで「はよーっス。野崎。あ?なんだそのちっこいの」と言うだけである。が、四コマであればそれでも話は通じる。ここで佐倉の反応を入れてしまうと、かえってテンポを削ぐことになるだろう。


しかし、アニメでは佐倉が驚くカットを入れている。長さとしてはほんの一瞬だ。しかし、この「反応」が後の布石となる。つまり、落ちのカットで、佐倉は御子柴について、聞いていた話と全然違うとして「うそつき!」と怒るわけだが、ここに繋がってくる。原作にない反応を入れたことで、「驚愕」から「憤慨」という段階が踏めるようになったのである。もし、ここで「驚愕」の布石がなければ、佐倉の感情変化は掴みにくいものとなってしまっただろう。ここでやっているのは、御子柴にカット数を集中させながら、同時に佐倉の感情変化にも目を向けるという、実に器用な演出なのだ。



段階的な変化を描いた例としてはこちらの方がわかりやすいだろう。堀が野崎の要領を得ない説明に対してさじを投げるまでを段階的に見せているのがわかる。このような布石を置くことで、四コマ目の落ちへ自然と繋がる。



こちらの例も同様である。原作にはない反応を経て、最後のカットで野崎の怒りが爆発する。原作ではこれらの反応を飛ばして四コマ目でいきなり怒る。



極めつけはこれである。原作にない反応を三つも挟み、友田に感情移入するまでの過程を段階的に描いている。カメラは野崎たちにどんどん迫り、カメラワークもFIXからPANへと変化する。わかりやすいほどに野崎たちの感情変化に沿った演出である。


ここで感情曲線を導入すると、さらにわかりやすくなるかもしれない。

かなりアバウトにつくっているが、わかってほしいことは「原作にはない反応」を挟むことで、野崎が負の感情を徐々に高めていくのが見て取れるということである。



POV化という謎な単語が出てきているがそれは置いておいて、ここで重要なのは野崎と御子柴の感情がどんどん高まっていく点である。


このように、「小さな反応」の積み重ねは段階的な変化を示し、それらはすべて四コマ目の「大きな反応」に向けた布石となる。いずれの例も布石を置くことで感情が急に飛ぶといった事態を防いでいる。


そしてこれは裏を返すと、感情の変化をスッ飛ばしたいときには「小さな反応」は入れるなということである。だが、そんなことをしたら感情の変化が掴めず話が分かりにくくなってしまうのではないだろうか。もちろん、上記の例ではその通りだ。だが、あえてそうしないことで落ちの面白さを引き出せる場合がある。実はそれこそが本稿の一番最初に出てきた「予想の裏切り」なのである。


ここでようやくわかるのは、落ちの種類が大きく二つに分けられるということだ。つまり、この章で紹介した段階的な「予想の裏切り」と、本稿の最初に示した非段階的な「予想の裏切り」である。


まとめ
四コマでは描かれないが、アニメでは描く芝居に布石としての「反応」がある。この反応を挿入することで、段階的な感情変化を描くことができる。

10.原作にはない芝居(2)「気付き」

四コマでは描かれないアニメ独自の芝居として、「小さな反応」以外に「小さな気付き」というものがある。


以下に例を示す。

「小さな気付き」とは、ぱっと見て、ハッとなることである。目を向ける仕草を入れてから、視線の先を見せる。そうしないと、アニメでは誰が誰・何を見たかわからないからだ。


四コマではこういった視線の問題が顕著になることは少ないように思う。急に時間が飛んだり、場所が飛んでも特に違和感がないのと同じで、ちょっとした「気付き」を飛ばしてもまったく問題がない。が、アニメではタブーだ。誰が見ているかが明示されない人物やモノのショットはPOVにならない。それは例えるなら、ツッコミが不在でボケをしているようなものである。



誰が見ているかがすでに提示されている場合、話の流れから明らかな場合、あるいは驚かせる必要がない場合、「気付き」の芝居は必要がなくなる。カットの順序も入れ替わり、見せたいものが先にくるようになる。


まとめ
目を向ける仕草「気付き」もまたアニメ独自の芝居である。POVでなければ成立しないような場面において、誰が誰・何を見ているかを明示することはアニメにおいて必須である。

11.セリフ・モード・カット

1カットに収容できるセリフ数やモード数(感情数)は構図やアクションの数で決まってくるように思う。例えば、アップショットで口パクするだけだと、一つのモード分のセリフしか収容できない。この章では、1カットに収容できるセリフ数・モード数を見ながら、アニメにおけるアクション付け、カット割りの意味を考えていく。


ということで、まずは以下のシーン。

カットによってセリフの量が異なることがわかる。特に一コマ目に対応するカットのセリフ量が飛び抜けて多い。


この一コマ目のカットのアクションを詳しく記述すると以下のようになる。

ここからわかるのは、短いセリフ毎に何かしらのアクションを入れているということである。1アクションにつき、セリフ一〜三文。



このシーンはだいぶ変則的で、1カットで一コマ目の途中から四コマ目最後までの展開を収容しているのだが、注目したいのは、前野が移動したり、手の位置を様々に変えたりしている点。つまり、小刻みにアクションをつけているのである。そうすることで、四コマ分のセリフ数を1カットに詰め込んでいる。



ここで重要なのは、双方の例がそれぞれセリフをモードごとに分けて、それに合ったアクションをつけているという点だ。ただ闇雲にセリフ・アクションを分けているわけではない。それらは被写体のモードと対応している(上の前野の例でいえば、「いやいや本当に」で遠慮、「あ、でもせっかくだし」で翻意、「都センセーの原稿です」で白状のモードといった具合である)。アニメではこのようにモードで小分けしないと、状況が伝わりづらくなってしまうところがある。



セリフをモードごとに分けてアクションをつける。この例で注目したいのは、「あの人は俺の」というところでポン寄りするところだ。一番言いたいセリフをアップにすることで強調している。セリフの強調というモードが飛躍する瞬間にカッティングしている。1カットか2カット以上かの分水嶺はこの辺りにありそうだ。



余談だが、アクションをつける他にも横PANで絵を持たせる方法もある。このシーンは4話なのだが、4話は他の回よりもこういったPANを頻繁に使用していた。



横顔になるとまたセリフの分け方が変わってくる。そもそも横顔は変化に乏しい。その代わりにある一定の強いモードを相手に向けるのに長けている。が、表情(モード)をコロコロ変えたい場合、横顔は必ずしも適切ではないのかもしれない。


続いて、アクションではなくカットをモードに対応させていく例について示す。

カットをモードに対応させる(モードごとにカットを割る)ことで、1カットの場合とはまったく違う光景がそこには生まれる。堀と鹿島のアップショットの往復、手の動きなどの些細な所作はいわば飛び飛びのモードである。これらは見ている側の感情を飛躍させるものだ。1カットではここまでの飛躍は表現しきれないだろう。視聴者はこのような(このとき、顔はこうでした。手はこうでした。目はこうでした。といった)複数の飛び飛びのモードを見ることで、はじめて被写体の感情というのを立体的に捉えられるようになるのだ(三コマ目と四コマ目とでカット割りが極端に異なる理由もこういった背景に基づくものであろう)。



感情の機微はカットを割らないと伝わらない。様々なアングル(といっても十二分に吟味されたものだが)の蓄積によって、ようやく視聴者は被写体の心情に迫ることができるのである。1カットの場合と比較すると(このシーンであれば最後の落ちのカットと比較すると)、感情の密度がまるで異なるという認識がここでは重要だ。


まとめ

セリフはモードごとにアクションがつけられていく。モードが飛躍する場合、飛躍させたい場合はその都度カットする。飛躍するモードの蓄積によって被写体の感情が浮き彫りとなる。

12.まとめ

本稿の初めに、4コマ目っぽいカットということで以下のカットを示した。

1話終盤のワンシーンであり、佐倉は野崎に二度目の告白をしようとするのだが、上手くできず、結局野崎から二枚目のサイン入り色紙を渡される。


この説明だけだと、ただの面白い光景なわけだが、果たして前のカットを遡上して見てみるとその印象が変わってくる。最後にこのシーンの演出を、本稿の総括を交えつつ見ていきたいと思う。

このシーンで何より注目すべきは、三コマ目に対して11カットも費やしていることだ。そこで愚直に描かれるのは佐倉の「小さな反応」の蓄積であり(8章)、飛躍するモードの蓄積である(10章)。BGMは四コマ目の2カット前という変則的な位置で終わり(4、5章)、告白直前に最大のピークを持ってくる(3章)。一拍置き、佐倉が見せるのは息を吸う所作(10章)。この時点で、まだ予想は裏切られていない(2章)。これだけ真面目な段取り(3章)だ。続く言葉が「好きです!」であるに違いない!が、予想に反して、四コマ目で告白失敗。原作に極めて忠実な構図(6章、7章)をもって面白く描かれてしまう。この一瞬でアニメは四コマ的コミカル表現に回帰し、三コマ目までのアニメらしさは跡かたもなく消失する。後に残るのは、告白に失敗したことへの苦笑と虚しさである。


が、それだけでは終わらない。この佐倉千代という残念な少女に肩入れしたくなってくる。それは三コマ目がまぎれもなく“佐倉千代という人間を描いた”ものであるからだ。そこにアニメであることの醍醐味を感じる。


四コマアニメが特殊であることの一端に、「三コマ目までのアニメ的表現」と「四コマ目の四コマ漫画的表現」が混在する点があるように思う。どれだけ真面目なアニメ的表現を盛り込んでも、最後は四コマ的な落ちに帰結する。が、アニメには「ギャップ」を操る術がある。その切り札が、原作にないアニメ独自のダイナミズムをまれに生み出すことがある。


アニメ『月刊少女野崎くん』は普段はコメディだけれど、たまに少女漫画になる。その答えはきっとここにある。



そんなわけで、本稿は以上である。最初は一つの記事にまとめるつもりが結局前・中・後編の長々とした超大作(笑)となってしまった。色々と至らない点ばかりであったと思うが、本稿を読んでくださった方々が、これを「叩き台」に、あるいは批評の肥やしとしてくれるようなことがあれば、これほど幸いなことはない。