『トライブクルクル』2話の演出を語る 前編

トライブクルクル』2話が面白かった。ストリートダンスを題材とする本作だが、毎回レイアウトや演出の質が高く、見ていて楽しい。中でも2話は他の話数とはひと味違い、ヒロインの女の子がダンスをやめようかと悩む話だったのだが、物憂げなニュアンスを演出面でよく表現しているように感じた。


本エントリでは、そんな『トラクル』2話の、特にAパートの演出について考える。Aパートにこだわるのは、カノンの葛藤を描いているのが主にAパートの方だったからである。演出的に難しいところであり、ゆえに見どころも多いように感じた。


なお、このエントリは二部構成である。前編では主にマクロで作品横断的な話をし、後編ではミクロな話をする。ややボリューミーだが、章や節ごとに各論となっているので、気になるところだけつまみ食いしていただければと思う。


≪2話のスタッフ≫
脚本:冨岡淳広 絵コンテ・演出:村野佑太
作画監督:遠藤江美子、あおのゆか、柳田義明(総)、西岡夕樹(総)
絵コンテ・演出の村野佑太は亜細亜堂の作品を中心に活躍されている若手の演出家である。『忍たま』や藤森雅也監督作品を追っているファンであれば、すでに知っているという方も多いのではないだろうか。2話の完成度もさることながら、序盤の重要な話数を託されたという、そのスタッフキャリアから見ても、信頼が厚い演出家であることが伺える。

1.『トラクル』2話の構図・ギミック

というわけで、まずはざっくりとどんな演出があったかを見ていきたいと思う。以下にまとめたのは、2話で使われた特徴的な構図とギミックである。

どうだろうか。「良い演出」尽くし!という感じが伝わるだろうか。この回はどこを切っても、金太郎飴のように「良い演出」が出てくる。子供アニメだが、大人っぽいギミックをしっかりと押さえている。もちろん、ただ闇雲に「良い演出」を放り込んでいるわけではない。ちゃんと文脈に沿って配置しているわけだが、そのような話は後編にまわす。ここでは、これらのギミックからいくつかピックアップして見ていきたいと思う。ものによっては適宜他作品を参照しつつ、基本的なポイントを押さえていく。



2話はダッチアングルが多い。ダッチアングルは空間の広がりを表現しやすく、構図を格好良く決めたいときに使われたりする。あるいは「斜め」であることから、非日常的で不安感や緊張感を煽る目的にも使われる。一方で、「斜め」ゆえに「傾きそう・動きやすそう」といった印象を与えることもある。つまり、静止画でありながら、今にも動き出しそうなニュアンスというのも含んでいる。実際に上記のいくつかは矢印の方に被写体やカメラが動く。ダッチアングル下でのそういった動きは負荷に対して従属的であるため、とても自然なものに映る*1



フォーカス送りやアウトフォーカスにはリッチ感がある*2。特にフォーカス送りは、「レンズの存在」を感じさせるものであり、パンフォーカスの場合よりも大抵はリアルっぽく映る(ここでのリアルは実写映画的という意味ではない)。もちろん、フォーカス送りには視線誘導の意味もあるわけだが、近年ではそれ以上にリッチ感が前に出ることが多いように感じる。とくに京アニあおきえい*3周辺、マッドハウス系などの撮影が強いところでは、フォーカス送りやアウトフォーカスはフィルムの完成度を決める一大要因となっている。


『トラクル』2話のフォーカス送りも、「視線誘導」とともに「リアル・リッチ感」の描写を兼ねている。構成を追うとわかるが、ここでのフォーカス送りを機に話のムードが一気にリッチ方面へと舵を切ることになる。パンフォーカスが常であるアニメにおいて、アウトフォーカスはある意味ではノイズだ。しかし、だからこそ、その違和感が話のテンションを一瞬で変えることだってあるのだろう。実際に2話がそうなのである。



交通標識は絵的に格好良いというだけに留まらず、それ自体がシンボルであるがゆえに含意的なものとして使われる場合が多い。たとえば、『トラクル』2話では「止まる」と「進行」という二つの標識が同時に置かれるわけだが、これはまさしく被写体であるカノンの「ダンスをやめるべきか/続けるべきか」という心情に同調したものと見ることができるわけである。


シンボル以外の用法もある。上記の『化物語』と『ハルヒ』はシンボル性・非日常性を主張しているのだが、対する『ノラガミ』と『デュラララ!!』は風景的なものとして描かれており、ある種の日常性を強調しているように見える。このように「交通標識」には二通りの用法がある。双方を峻別するのは「自然に見えるかどうか、風景として合点がいくか」といった点だろう。もちろん、演出の意図を正しく読解するには、文脈も同時に考慮する必要があるだろうが*4、演出的にシンボリックな標識というのは得てして不自然に設置されていることが多いものである。



「横の構図」もまた絵的に格好良く、リッチでレアなものに感じる。というのも、二者関係を示すレイアウトは基本的に「横」ではなく「縦の構図」だからだ。「縦の構図」は空間に奥行きを生み、映像にリアルさをもたらす。ゆえに重宝される。それに対して、「横の構図」というのは平面的であり、映画というよりは演劇に近く、あまり自然な構図とは言えないところがある。だから普段は使われない。レアなのである。しかし、ここぞというシーンで使うことで、効果を発揮することがある。特に、普段とは違ったある種の「非日常感」を演出したいときには「横の構図」は打って付けだろう。『トラクル』2話も「横」になるシーンでは雰囲気がガラっと変わる。ちなみに同じシーンに先述の「交通標識」も登場する。「横の構図」と「交通標識」の合わせ技で、非日常感を演出していると見ることもできるだろう。「横の構図」については後の章でも言及する。


◇◇◇


いずれにしても重要なのは、上記の演出がどれも「普通じゃない」ものとして使われているという点である。アニメにおいて「普通」なのはパンフォーカスや縦の構図なのだ。そこから逸脱したものはいわばノイズのようなもの。しかし「普通じゃない」ノイズだからこそ、一方でそれらが「アクセント」にもなったりする。上記では触れなかったが、「窓越し」や「窓際」の構図が2話ではよく出てくる。これらはアクセントというよりも、繰り返し使うことで意味を出そうとしている。「窓際」では人は物思いにふけるのが常である。つまり、カノンが悩んでいる様子をそうやって繰り返し繰り返し刷り込んでいるわけである。夕景のシーンが多いというのも、窓際と同様に統一のイメージを与えるものだろう。こういったモチーフが全体の雰囲気をつくり、その一方で「普通じゃない」ギミックが一発屋として使われ、アクセントとなる。それら二つを区別すると、2話の見方が整理されてくる。


ここまで横断的な話が続いたが、以降はもう少し2話に寄った話をしていく。

演出技法のまとめ
・ダッチアングル…空間的に広がりのある構図や、動きやすそうな構図をつくる。
・フォーカス送り…リッチでリアルな映像を演出する。視線誘導としての効果もある。
・交通標識…記号性が強いが、風景に同化することで日常感を補強することもある。
・横の構図…演劇的で不自然だが、非日常感がある。縦の構図とは対照的。


・モチーフ…2話では窓際・窓越しの構図や夕景など。全体の雰囲気を決定する。
・ギミック…アクセントになる。話のムードを変える。アウトフォーカスや横の構図など。

2.主観化するロングショット

・ショットサイズごとの演出効果
構図の三大要素のひとつに「ショットサイズ」がある。そのサイズが違えば、アップになったりロングになったりと、受ける印象も当然変わってくるだろう。たとえば、ショットサイズごとの演出効果については、以下のようにまとめられることがある。

つまりアップだと主観的(感情表現的)、ロングだと客観的(状況説明的)という区分である。そのように書かれると確かにそんな気もするのだが、しかしこれは言ってしまえば「文脈」を考慮しなかった場合の解釈だ。場合によっては、そうならないこともあるだろう。


・主観化するロングショット
そうならない例として、以下のシーンを参照してみよう。

このシーンではロングショットが二か所(C-2、C-6)あるのだが、それぞれの演出意図は異なる。どういうことかというと、一方は状況説明で、もう一方は実は感情表現となっているのである。


C-2は場面転換直後の状況説明のカットだ。「ここはカノンの部屋です」と説明している。しかし、C-6は違う。状況説明はすでに済んでいる。では、なぜロング?となるわけだが、ここはセリフを考慮することで察しがつく。つまり、ひとつ前のC-5ではダンスをハネルに褒められることでカノンは大きく揺れ動くわけだが、C-6では一転して消沈している。つまり、感情がポジティブからネガティブへと反転する。その反転は、アップからロングへの切り替わりと同調する。つまり、C-6のロングは状況説明ではない、カノンの感情に応じたものとして見ることができるのだ。


・「アップからロング」という逆張り
「アップ/ロング」の区別については、あるいは次のように考えることもできるかもしれない。C-5のアップショットでは、カノンはハネルとチームを組むことに対して、「感性的」に惹かれている。しかし次のカットでは打って変わって「理性」が幅を利かす。その結果、断念してしまったように見えるのである。

何が言いたいのかというと、ここではアップ=感性的、ロング=理性的なものとして使われているのではないかということだ。「ポジティブ/ネガティブ」よりも、こう峻別する方が汎用的かもしれない。

たとえば、ここでの「アップからロング」はまさしく「感性から理性」の移行に沿っているように見える。感性とは「ピコーンとひらめくこと」であり、理性とは「真面目で冷静になること」だ。そのふたつを行き来することで、人間味が出てくる。特に感性から理性という、ある意味で「冷めてしまう」ような感覚というのはきわめて日常的で人間的な表現であるように思う。「アップからロング」の繋ぎはそういった感情の変化に肉薄する。

演出の着眼点
・ロングショットは状況説明だけでなく、感情表現に使われることもある
・アップからロングという繋ぎにおいて、アップは感性的、ロングは理性的と解釈できる


≪後編に続く≫

*1:負荷に「服従」する動作があれば、逆に「抵抗」するような動作もありえるだろう。たとえば、『青い花』のOPでは「服従」と「抵抗」の両方を駆使した演出を見ることができる。

*2:アウトフォーカスの最近については次のエントリが詳しい。
アニメとデジタル一眼レフとカメラ女子について語りたかった - お楽しみはパジャマパーティーで

*3:あおきえいは被写体のフレームイン時にピンボケさせる演出をたびたび使用する。管理人の知る限りでは、『GIRLSブラボー』の頃にはすでにそういったことを試行していた。

*4:たとえば、上に挙げた『デュラララ!!』7話の交通標識は日常描写としての一面がある一方で、実はその文脈を考慮すると、シンボル的な一面も浮かび上がってくる。というのも、この回では頻繁に交通標識が出てくるのだが、それらは「背景」としてではなく、だいたいが「凶器」として出てくるのである。7話の主人公である平和島静雄は誰かとケンカをするたびに、持ち前の怪力を活かして道端の交通標識を引っこ抜き、凶器として振り回す。つまり、この話において交通標識は「標識」である以上に「凶器」のシンボルなのだ。日常風景としての交通標識が突如として凶器化する、そこから読み取れるのは、少年期の静雄にとって「平穏な日常」と「暴力沙汰」が常に隣り合わせであったということだ。