『SHIROBAKO』16話の演出を語る

脚本:吉田玲子
絵コンテ:倉川英揚 演出:太田知章
作画監督:川面恒介、大東百合恵、川村夏生、佐藤陽子、今泉賢一、朱絃沰、関口可奈味(総)


16話。井口がキャラデザ修正に「煮詰まる」回。演出も彼女が中心となるように組まれる。特に「誰を映すか」という点に注目するとその構造が見えやすい。カメラというのは基本的には「話し手」に向けられるものだ。しかし、それが別の誰かに向くことがある。では何故そうするのか。そこに着目すると、16話の演出の一端が見えてくる。


以降、話し手にカメラが向かないカットをピックアップしながら、16話の演出を考えていく。



Aパート頭。キャラデザ修正を依頼される井口。オフ台詞で井口のアップを抜き、表情の変化を追う。ここでは話し手(渡辺、宮森)にカメラが向かない。井口だけを映す。すると画面の意図がガラッと変わる。これが重要だ。会議が進む中で一人「煮詰まっている」感じをオフ台詞のアップで抜いていく。



続くシーン。ここにもオフ台詞(上図2、3)が入る。話し手は遠藤だが、カメラは絵麻やゴスロリ様に向けられる。何故か。ここでは遠藤の話よりも、井口を心配する絵麻やゴスロリ様を見せたいからだ。そのようして井口を話題の中心(注目の的)に据える。「話し手」と「被写体」を一致させないことで、セリフ内容とは別の物語を水面下で推し進めていく。



「ただの会話」であれば、話し手と被写体は一致する。オフ台詞のカットは入れない(厳密には、木下監督のカットは背向きなのでオフ台詞と呼べるが、便宜上ここでは話し手が映らないカットをオフ台詞と言うことにする)。オフ台詞の際は何かしらの「一捻り」がある。



ここでも井口に視線を向けるゴスロリ様(上図3)。オフ台詞ではないが、「無言」で「視線」という先ほどと同様の描写を繰り返し行い、井口を心配する様子を印象づけていく。



ここでは宮森が井口に視線を向けている(上図3)。絵麻やゴスロリ様と同様の描写だ。話し手である井口以外にもカメラを向ける。そこで「井口を心配する宮森」という絵をしっかりと挟む。そうして台詞の内容+αの意図を加える。



オフ台詞で宮森が無言でいる間を挟む(上図1)。すると、宮森が何かを考え込んでいるように映る。おそらく井口のことを気にかけているのだろう。オフ台詞となった高梨のセリフは二の次で、優先順位がガクっと下がって聞こえる。



無言で井口の机に視線を向ける宮森(上図1、2)。繰り返し井口のことを気にかける様子を描く。


宮森やゴスロリ様の心情は実際に言葉となって出てくることはない。そのため表面上は井口が一人で踏ん張っているように見える。しかしその実、皆が心配している。すべてをセリフで説明しないという、このニュアンスをオフ台詞などの「無言カット」が掬いとる。


この段取りを踏んでから、言葉を伝えるシーン(ダイアログ)へと移る。心配するだけだった人たちが一人、また一人と行動を起こしていくわけだ。演出的には「オフ台詞」に加えて、「台詞のカットまたぎ」といった手法も使われるようになる。


公園に行き、井口を発見する宮森。そこでの会話。

井口の台詞がカットをまたいで、宮森に届いているのがわかる(上図2、3)。井口の言葉がたしかに宮森へ届いていることを「カットまたぎ」の「オフ台詞」で描写する。

一方で、宮森の言葉がカットをまたぐことはない。オフ台詞となって井口へは伝わらない。この違いに注目したい。一応、井口は一拍おいてから返答している(上図2、3)。この一拍の間は井口が宮森の言葉を受け止めたことを示すものだろう。


しかし、井口は再度挫折することとなる。宮森の言葉だけでは足りないのだ。彼女の言葉はカットをまたがない。だから、井口に十二分に伝わり切らない。井口の心に届いたことを示す絵としては最適ではない。あえて最適な絵にしていない。

ちなみに、ここでの人物配置は上のようになる。宮森は井口の方へ身体を向けているが、井口は正面を向いている(宮森に顔を向けるときもあるが)。どこを向いているかというのは、演出上ではかなり重要だ。宮森が井口の方を向いているのは、彼女を心配しているからだ。対する井口は宮森のことを心配しているわけではない。むしろ自分自身と向き合っているような状況だ。だから彼女は前を向いて話す。この配置はもう一度出てくる。



数日後、まだ煮詰まっている井口(上図1)。ゴスロリ様が井口に視線を向けている(上図2)のは先の例と同様。


スタジオ屋上にて、絵麻と井口の会話シーン(エンゼル体操後のシーン)。

井口への思いを伝える絵麻。彼女の台詞はカットをまたがない(カットをまたがないからといって、井口に伝わっていないというわけではない)。

対する井口の台詞はカットをまたいで、絵麻に伝わる(上図3)。強い意志を宿した台詞はカットを越えて相手に伝わる。井口の葛藤が伝わってくる。その言葉を聞いた絵麻は彼女の強い信念に大いに揺さぶられる。



まとめると、井口の台詞がカットをまたぐが、宮森と絵麻はまたがない。この描写の差はそのまま両者の非対称な関係性を表す。言葉がどちらからどちらへ、より伝わりやすいかを明示しているとも言える。



人物配置も先の宮森と井口の場合と同様。絵麻と井口はやはり非対称的な関係にある。見合わない。対等に見せない。見ているのは誰で、見られているのは誰で、問題の当事者はどちらで、といったふうに両者を区別して描く。



場面変わって、再び井口の机に視線を送るゴスロリ様。ここまでずっと黙ってきた(視線の描写のみで押し通してきた)ゴスロリ様が続くシーンからついに口を開くわけである。



このシーンでは、ゴスロリ様の台詞は悠々とカットをまたぐ。

ゴスロリ様は毅然とした態度で、理路整然とした主張を通す。ゆえに彼女の台詞はカットの壁を飛び越え、相手にしっかりと届く。

対する木下監督と渡辺Pの台詞は弱々しくカット内に収まる。彼らの台詞がカットをまたぐことは一度もない。


「強い台詞」はカットをまたぎ、聞き手にオフ台詞となって伝わる。「強い台詞」は聞き手を反応させる。カメラも反応する人物らに向く。ゴスロリ様はこの場の覇者だ。彼女の言葉は会議室全体に響き渡る。そこにおいて、彼女がカメラに映っているかいないかは些末な問題である。


井口の煮詰まり感を打破するためには、誰かの言葉がカットの壁をこえて井口のもとに届く必要がある。井口がその言葉をたしかに聞き届けたという描写を入れる必要がある。その役目を担うのはご承知の通り、ゴスロリ様だ。


バッティングセンターの帰り。喫茶店での会話。

井口の台詞が難なくカットをまたぎ、オフ台詞となってゴスロリ様に通る(上図2)。先ほどの木下監督・渡辺Pの場合とはまるで違う。こうすることで、ゴスロリ様が井口の言葉をしっかりと聞いているのが伝わってくる(木下監督と渡辺Pの的外れな台詞はちゃんと聞く価値なし!笑)。セリフがカットをまたぐのは、聞き手がちゃんと聞いていたり、話し手がちゃんと話した場合に起こる。



そして続くカット。ここでゴスロリ様の台詞がカットをまたぐ(上図1、2)。彼女が最も伝えたいとする助言を後輩たちにオフ台詞で聞かせていく。これまでオフ台詞がなかなか伝わりづらかった井口にも、ゴスロリ様の言葉はしっかりと通る。視野が狭まっていた井口のもとに、ゴスロリ様の言葉がストンと落ちる。ここを境に井口の「煮詰まり」は解消される。


誰にカメラを向けるか。話し手か、聞き手か、はたまたそれ以外か。その選択によって、扱いの優劣、関係性の優劣が自ずと決まってくるようなところがある。それはセリフを追うだけでは捉えきれないニュアンスであるように思う。16話はそういった点をうまくカット割りに取り込んでいたように見えた。