『大図書館の羊飼い』9話の演出を語る

脚本:藤咲あゆな
絵コンテ、演出:山内重保
作画監督:小林利充、三島千枝、鎌田均、飯飼一幸、齋藤育実(総)、藪本和彦(総)


というわけで9話。山内回。毎度おなじみの「アップショット」「斜め」「山内カラー」といった演出が盛り沢山であった。話としては、御園回と見せかけて、実は小太刀の話も並走していて、この二人と筧のやりとりを対照的に描いてみせた回だったと思う。演出もそれにあわせて対照的に描かれていた。


本エントリでは、山内演出的な話はひとまず後回しにして、御園と小太刀の描かれ方の違いにまずは焦点をあてていく。そのあとで山内演出にフォーカスした話をしたいと思う。

ワンショット/ツーショットのアップ/ツーショットのロング

9話のカットを大雑把に分類すると、以下の三つになる。

ワンショットかツーショット。ツーショットは便宜上アップとロングに分けている。こうすることで、9話の演出を捉えやすくなる。どういうことかというと、9話ではこの3つの組み合わせをうまく変えることで、関係性の「親/疎」を描き分けるのである。



たとえば、このようにワンショットが続くカット割りでは、会話する二者はカットに分断されて描かれる。すると、二者の関係は「遠い」ものとして見えてくることがある。「え?そうなの?」と思われるかもしれないが、9話の演出をよーく見ると、どうにもこのワンショットの連鎖を「二者を離すため」に使っているような節があるのだ。


となると、その逆、関係が近しい場合はどうかといえば、

このように、ツーショットのアップ(人物ナメ)を挟む。すると、すぐそばに話し相手がいることが描写され、二者の間に繋がりが見えてくる。


このツーショットがアップではなく、ロングだったらどうかというと、アップほど関係の近しさは感じられないだろう。小さくポツーンと映る二者に親密な関係性は期待できない。


簡単にまとめると

ポイント1
・ワンショットだけ…不和
・ツーショットのアップ…親密
・ツーショットのロング…不和

となる。9話だと、筧と小太刀が「不和」、筧と御園が「親密」の関係にあたる。そこに上の演出ルールが適用される。以下、例を出しながら見ていきたいと思う。


まずはワンショットが続くカット割り。筧と小太刀のワンシーン(Aパート終盤)より。

ここは筧の勝手な行為を小太刀が問い詰めるシーン。ワンショットだけで繋いでいく。筧は御園が負担に感じていた歌の練習を辞めさせる。しかしそれは御園の歌手としての可能性を潰す行為に等しい。より良い未来を実現させる使命をもつ羊飼いとしてはそれはあってはならない行いだ。ゆえに小太刀は筧に呆れてしまう。もちろん筧には筧の考えがあるのだが、小太刀も譲歩するわけにいかず、両者はすれ違ってしまう。そこで描かれる「不和」な関係をワンショットで分断的に見せていく。普通ならこういった演出は二者の位置関係がはっきりしないためタブーである。しかし、それをうまくやってのけるのが山内重保だ。



Bパート終盤のこのシーンも、先と同様にワンショットが続く。カット3だけツーショットのロング。二者の距離が近いにもかかわらず、アップのツーショット(人物ナメ)が入ることはない。人物ナメを禁止することで「不和」の印象を焼き付けていく



9話ラスト、魔法の図書館のシーン。ここでは一か所、例外的にアップのツーショットが入るが、これは小太刀が筧の前を横切るカットである。人物ナメではない。視線も合わない。横切るだけ。そこに「親密」な関係は感じられない。



以降、ずっとワンショットで矢継ぎ早に切っていき、エンディングとなる。筧は小太刀を気にかけるが、時すでに遅し。小太刀はある秘密を知った筧に対して素っ気ない態度をとる。そういった「不和」をワンショットの蓄積が支持していく。


このように筧と小太刀は基本的にワンショットで描かれるが、最初から二人はこうだったかというと、そんなことはない。

たとえばアバンのこのシーンではツーショットのアップ(人物ナメ)がしっかりと入る。ここにおいて二人はまだ、「不和」な関係にはない。



Aパート最初のシーン。ここにもツーショットのアップ(人物ナメ)が挟まる。最初の時点ではまだ二人はこじれていなかったのである(もっと言えば、このシーンで筧がもう少し小太刀を気にかけていさえすれば、後々こじれることもなかったのだが、それに関しては次の章で触れる)。


この人物ナメがなくなったときに、二者の関係は不和へと堕ちていく。9話の演出には、そういった“ルール”が敷かれているように見える。

ポイント2
・小太刀…人物ナメ→ワンショット=「不和」へ
・御園…○○○→□□□=「親和」へ


では小太刀に対して、御園の場合はどうか。

Aパート中盤。歌の練習をする御園のもとにやってくる筧。ここでは筧は終始、御園のことを気にかけている。ワンショットを主としたカット構成だが、ツーショットも入れている。カット1ではロングだったのが、カット3ではミドルへと近づく。こうして、カメラの距離を徐々に詰めていく。それは御園の本心に迫っていく展開とシンクロする。



続くシーンでは、カット構成がツーショットを主としたものに切り替わる。そして両者の距離感は接近する。ここまでずっと御園の話を聞くことに終始していた筧が話し始める。その言葉に御園は励まされる。そこでツーショットのアップ(人物ナメ)が入る。フレーム内に密に二人が入り、筧の言葉はダイレクトに御園へと届く。二人の関係が近づく瞬間を「ツーショットのアップ」というフレーミングですかさず捉える。



Bパート中盤。筧と御園のやりとりにはツーショットのアップやミドルがちゃんと入る。ワンショットだけで繋ぐようなことは絶対にしない。この点において、御園と小太刀は対照的だといえる。



そんな御園だが、じつは最初のアバンはワンショット的に描かれる。ここは歌の練習に行かない御園を音楽教師と桜庭が問い詰めるシーンだが、御園は常にワンショットで撮られる。誰の人物ナメも入らない。つまり「不和」を示す。誰と「不和」なのかはお察しの通りだ。


以上の話を簡単にまとめると、

ポイント3
・小太刀…人物ナメ→ワンショット
・御園…ワンショット→人物ナメ

となる。小太刀が「不和」へ、御園が「親和」へと向かう展開に、演出がしっかりと追随していることがわかる。

アップショットで喋る/喋らない

山内演出といえば、アップショットだが、そのアップショットには以下の2パターンがある。

つまり「アップで喋るか、喋らないか」だ。「それだけ?」と思われるかもしれない。そう、大雑把に分けるとこれだけだ。しかし、これがかなり重要になるのである。特に「喋らない」カットが重要だ。なぜなら、それは会話シーンにおけるアクセントになるからである。


喋っていないのに、なぜアップで映すのか。それは喋らない代わりになにか別のことを「している」からだ。たとえばそれは、話し相手を「見ている」のかもしれないし、その話を「聞いている」のかもしれない。話を聞きながら、何か「考えている」のかもしれない。いずれにせよ、「喋らない」カットはそういった喋る以外の「行い」をピックアップする。

9話であれば、筧は御園のことばかり気にかけ、小太刀には無関心であった。これは言い換えれば、御園のことを「見て・聞いて・考えて」いたが、小太刀のことは「見て・聞いて・考えて」いなかったということである。このような「関心/無関心」という描写の違いに際して、「喋らない」カットというのが密接に関わってくる。

ポイント4
・喋る…「無関心」を示す場合がある
・喋らない…「関心」を示す



たとえばAパート中盤のこのシーン。歌うことに負担を感じると言う御園に対して、何も喋らない筧。喋らない代わりに、御園のことを見て、話を聞く。彼女を気にかける様子は、喋らないカットを挟むことでより明確に伝わる。


これが小太刀の場合だとそうならない。

Aパート序盤。ここでは筧はずっと喋っている。すると、先ほどとは違って、小太刀のことは気にかけていないのだというふうに映る。逆に、喋らないカットが入るのが小太刀だ。御園のことばかり気にかける筧のことが気に食わない。そういった無言の圧力が太ももと顔のアップに集約される。喋らないカットを挟むことで、小太刀の筧への想いを描写する。小太刀は筧に「何かあったのか?」と声をかけてもらいたくて仕方ないのだ(たぶん)。



Aパート終盤。このシーンも同様。喋らないのは小太刀。筧は小太刀を気にかけない。「お前も好きにしてみれば?」というセリフは彼なりの配慮なのだが、そうして小太刀は筧に放っておかれることになる。太ももアップの喋らないカットはそんな彼女の孤独な心情に迫るかのよう。続くカットでは目元を映さずに「できるか!」と激昂する。ここでは目を見せたくない。目は本心を映す。見栄っ張りな彼女は、だからこそ、目元を隠す。



Bパート終盤。ここでようやく筧の喋らないカットが入る。小太刀の様子がおかしいことに気付き、彼女を気にし始める。喋らないカットがそういった様子を描写する。しかし、もう遅い。小太刀は去ってしまった。


まとめると、二人の「喋らない」人物がいた。筧と小太刀だ。

ポイント5
・筧…主に御園に対して「喋らない」=御園を気にかけている
・小太刀…筧に対して「喋らない」=筧に想いをよせている

このように分けて見ることができる。


そして、この「喋らないカット」の有無がトリガーとなって、ワンショットだけになったり、ツーショットのアップ(人物ナメ)が入ったりした、というように見ることができるだろう。ここまで9話の演出を「ワンショット/ツーショット」と「喋る/喋らない」という軸で見てみたわけだが、この二つは別々ではなく、互いに作用しあっているものなのだ。


というわけで本題はここまで。最後におまけということで、皆さんがよく知る山内演出的なところを簡単に見ていきたいと思う。

山内演出の三大要素「山内カラー/山内しぐさ/山内リム」

≪山内カラー≫

山内演出では、ここぞというシーンでアブノーマルカラーを採用する。具体的にはハイコントラストでモノトーン的な色空間をつくる。それにあわせて、背景もウェット・イン・ウェット(にじみ技法)や色鉛筆で彩色されたりする。これは基本的に山内回にしか見られない。


≪山内しぐさ≫
山内演出には、特徴的な「動き」がある。ここではそれを「山内しぐさ」と呼ぶ。具体的には、「フレームイン/アウト」、「傾く」、「Z軸移動」の三つが挙げられる。

たとえば、このカットでは御園の手が「フレームイン/アウト」する。普通なら顔アップで済ますような箇所をそうしない。重要なシーンではひと手間かける。



ここでは顔の上半分が「フレームイン」する。このように「山内しぐさ」は身体の一部を「フレームイン/アウト」させる。手間はかかるが、そうすることで「見せる/見せない」というメリハリができるだろう。あるいは、フレームの枠を無視した動きということで、反アニメ(=実写?)的な動きを志向しているのかもしれない。



あるいは「傾く」動作。これもまた「山内しぐさ」だ。山内回の被写体は基本的にフラフラしている。下半身が「傾く」のにあわせて、上半身も「傾く」。



セリフを発する前に「傾く」。傾くことで話す前にワンクッションができる。このように止めずに動かしたがる志向もある意味では反アニメ的といえるかもしれない。



手をついた反動で上半身が「傾いて」「フレームアウト」という「山内しぐさ」。



下半身が「傾いた」勢いで、続くカットでは顔が「フレームイン」。これも「山内しぐさ」の範疇だ。



そしてもう一つの「山内しぐさ」がZ軸移動である。たとえば、上のシーンでは前かがみから、体勢を立て直し、奥へ後退という一連の動作が見られる。つまり、ここではZ軸(前・後、手前・奥)方向に沿って身体が動いている。特に前かがみから立て直す動作は見覚えがある方も多いのではないだろうか。



ここの動きもZ軸移動。XY移動が主流のアニメにとって、Z軸移動を取り入れるという志向もまた反アニメ的であるように思う。つまり「山内しぐさ」は反アニメ的な節がある。だからこそ、特徴が顕著なのだともいえるだろう。


≪山内リム≫
山内リム(limb)とは、手や足といった四肢を映す演出のことである。なぜ四肢を映すのかというと、そのカットではその四肢こそが動作の「主」となるからだ。

たとえばこのシーンでは御園の感情に同調して、音叉を強く握りしめたり、ほどいたりする。このような手による表現は顔の表情だけでは出し切れないものだ。


感情(や行動)を表現するのに最適な箇所、それこそが動作の「主」となる。山内演出の場合、それは四肢に振られることが多い。



手に対して足はやや不器用といえるかもしれない。手ほど器用に動かないからだ。しかし、フラフラしたり、もぞもぞしたりといった不器用な動作がダイレクトに感情表現の不器用さを示してみせることがある。手には手の、足には足の得意な表現域があるのだ。


こういった四肢を映した「山内ショット」を挟むことで、顔だけの場合と比べて格段に含意性は増し、感情表現はより豊かなものとなる。

ポイント6
山内演出の三大要素
・山内カラー…ハイコントラストやにじみ彩色等による特殊な色空間のこと。
・山内しぐさ…フレームイン/アウト、傾き、Z軸移動による反アニメ的な動きのこと。
・山内リム…四肢を映したショットのこと。感情表現の幅を広げる。


≪参考にした記事≫
山内重保のアップと運動描写 夢喰いメリー - WebLab.ota
山内重保より 〜「新世界より」「アイドルマスター」「輪るピングドラム」「謎の彼女X」など〜 - WebLab.ota
「ハピネスチャージプリキュア!」32話の山内重保演出のおさらい - 失われた何か
【アニメ感想】新世界より第5話「逃亡の熱帯夜」山内重保演出に酔いしれる!! - Daydream Holic Night
『アイドルマスター』第9話 山内重保についてのメモ - あしもとに水色宇宙
2013夏アニメ 君のいる町 - 近日閉店!大匙屋
輪るピングドラム第18話その1山内重保は原因と結果のマジ連打! - 旧玖足手帖-日記帳-